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神風の国・伊勢の超古代国取合戦


June.20.2006





つづき
前回までに、「尾張」、「美濃」と、はるか古代に高天原とも称され、
栄華を誇った東海地方の姿を解き明かしてきたわけじゃが。
かおる
というか、ぜんぜん解き明かしてないと思いますけど?
恥ずかしい妄想はやめましょうよ。
つづき
(聞いてない→)次は、「伊勢」の古代史像をつまびらかにせねばなるまい。

かおる
伊勢ですか〜。 まあ、伊勢には、天皇家の祖神でもあり高天原を治めていた天照大神の鎮座する、
由緒ある「伊勢神宮」があるには有りますが……。


日本書記によれば天照大神は、もともとは、崇神天皇の御世に、奈良の大和国笠縫邑でを祀られました。
それから各地を巡幸して、最後に伊勢に祀られたわけですから、
最初から伊勢に天照大神を祀る由縁か何かがあったわけでは無いでしょう。
まして、伊勢に高天原があったというような文献や、考古学上の遺物も何もありません。
三重県志摩郡磯部町恵利原に「天の岩戸」がありますが、まぁ、神話時代とは関係無いでしょう。





崇神紀


 六年、百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、 その勢いは徳を以て治めようとしても難しかった。  それで朝夕天神地祇にお祈りをした。

 これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。

 ところがその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。  そこで、天照大神を豊鋤入姫命(とよすきいりびめ)に託し、 大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀った。  よって堅固な石の神籬(ひもろぎ)を造った。  また日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。  ところが渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祀りすることができなかった。


(翌年、国の災いは大物主の祟りであると、
倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が、神憑りして言われた。)




天照大神は、崇神天皇の御世に、大和の笠縫邑で祀られた。
その後、丹波の吉佐宮に遷座した。
(現在は元伊勢と呼ばれる籠神社がある。)



天照大神を祀る祠は、各地を巡幸し、
最後に五十鈴原河上に落ち着いた。
(現在の伊勢神宮である。)



天照大神が最初に祀られたのは大和国であって、
伊勢は、各地を巡幸した後の到達地点である。


つづき
さて、ここが問題じゃ。
天照大神は、安住の地を求めて各地を巡幸したとされておるな?
かおる
日本書紀の垂仁紀に、その記述がありますね。

つづき
ちょいと、引用してくれぬか?

かおる
いいですよ? では。
 




垂仁紀

伊勢の祭祀


 二十五年(〜中略〜)三月十日、天照大神を豊鋤入姫命からはなして、倭姫命に託された。  倭姫命は、大神を鎮座申し上げるところを探して、宇陀の篠幡に行った。  さらに引き返して近江国に入り、美濃をめぐって伊勢国に至った。

 そのとき天照大神は、倭姫命に教えていわれるに、
「伊勢国はしきりに浪の打ち寄せる、傍国(中心ではないが)の美しい国である。 この国に居りたいと思う」と。
 そこで大神のことばのままに、その祠を伊勢国に立てられた。  そして斎宮(斎王のこもる宮)を五十鈴川のほとりに立てた。  これを磯宮という。
 天照大神が始めて天より降られたところである。



天照大神は、(中心ではない)傍国ではあるが、
浪の打ち寄せる伊勢国を気に入って定住を決めたらしい。




つづき
大事なのは最後のくだりじゃ。 もう一度、引用してみよ。

かおる
これですか?





 天照大神が始めて天より降られたところである。






”天照大神が始めて天より降られたところである。”



天照大神が降臨した、
最初の国が伊勢だった?




つづき
日本書紀は、天照大神は、伊勢国出身じゃと、明記してあるのでは無いかな?

かおる
いや、そういうことじゃ無くて、”伊勢に祠を立てたから、始めて天照大神が降りてきた”
ということじゃあないんですか?
つづき
祠を立てた後、天照大神が降りてきて活躍したなどという記述は見当たらぬが?

かおる
実体として降りてきたというよりか、神託の形で降りてきたのでは?

つづき
では、最初に神託を受けたもの=天照大神を祀っていた者が、伊勢に居たということになろうな?
当然、大和国で天照大神を祀る以前にじゃ。
かおる
う〜〜ん。 どうなんでしょう〜?
そんなふうにこじつけられると、どのようにも解釈できそうですけど。
つづき
もっと素直に考えたらどうかね?
天照大神は、伊勢出身の神なのじゃと。
かおる
一説には、もともと天照大神は伊勢湾周辺の土着信仰の神で、壬申の乱で天武天皇が、
東国勢力の助けを借りるために祀ったという話も、有るようですが……。
つづき
この前も指摘したように、「アマ」は、「」ではなく「」を意味していた言葉だったじゃろう。
海人(あま)の勢力が、「アマ」という自分達の言葉を、漢字の「」に置き換えたものと考えられる。


日本語の「アマ」とは、もともと「」を意味する言葉。
後に、漢字の「」を、「アマ」と読んだ。

アマ」を神聖な言葉としていた海人勢力があった。
壬申の乱で、天武天皇(大海皇子)を援護した海人勢力(東海勢力)が、
(アマ)」を、「(アマ)」と、読み換え、
自分達の言葉に権威を与えた。

参考コラム



事実、文献には「」と、「」の漢字の置き換えが見られる。


檜槍(あまのひほこ)←古語拾遺
日槍(あまのひほこ)←日本書記


「天」が付く言葉は、後世になって、と、
書き改められた可能性がある!



つまり

海照大神天照大神
高海原高天原






つまり

高海原とは、伊勢湾周辺の地域だったに違いない!




伊勢国は、海産物が豊富に取れる「うまし国」とも呼ばれた。
「うまし国」は、「海(あま)の国」という意味だったはずである。

あま

あまし→うまし→うまし国(伊勢)

あまてらす(海照)=太陽=日神

天照大神


「高」は、「高尾張」など、尾張氏の使った美称。

あまはら(海原)→たかあまはら→高天原






かおる
ほほぅ。 日本書記では、但馬国を開いた日槍(あまのひほこ)という新羅の王子が、
古語拾遺では、檜槍(あまのひほこ)と書かれていると言われると、ネタにしてもちょっと説得力が出てきますね〜。
つづき
嘆かわしい。 まだネタじゃと思っておるのかね?

かおる
だって、高海原高天原なんて言われてもね〜。
高天原=東海地方説を力説したところで、はたしてどこまで世間で通用するものでしょうか?
つづき
そうじゃのう、ほぼ無条件に高天原=天孫族=渡来人=西方の国じゃと、ちまたでは捉えておるようじゃて。

かおる
古代の倭人が、稲作などの文化を渡来人から学んだことは確かなのですから、
渡来人を神と崇めたとしても、おかしくはありませんよ?
つづき
しかし、倭人が渡来文化を学んだことと、日本で王権を築いた者が渡来人じゃったかどうかは、別問題である。
ここを間違えておると、いつまでたっても、古代史の真実は解けぬであろう。
かおる
では、渡来人の文化を受け入れつつも、日本で王権を築いていったのは、
あくまでも土着の倭人の王とゆ〜ことでしょうか?
つづき
その通り! 三種の神器のひとつ、「勾玉」は、日本独自のデザインじゃ。
前方後円墳」や、「」を大量に副葬するのも、日本独自の墓制じゃ。

倭王権の血筋は、弥生時代に突然発生したのではなく、
縄文時代から受け継がれているはず。

なにより、記紀神話には、高天原が外国に存在したことを匂わすような記述は一切無い。
スサノヲが、高天原を追放されて、出雲に降りた記述にしても、高天原が日本の外にあったという根拠にはならぬ。
スサノヲが新羅や會尸茂梨(ソシモリ)に行ったという記述はあるが、スサノヲが新羅から来たわけではない。
「この地には居たくない。」と、不満を言って帰ってきているので、日本からの遠征であることは間違いない。
ニニギの天孫降臨の時にも、日本海を渡ってきたような記述はないのである。

天孫族は、けして渡来人などではありえない。



かおる
では、今回も師匠の結論としては、伊勢には超古代伊勢王国=高天原(高海原)があったと、
そういう締めくくりでいくのですね? でも……。
つづき
なんじゃね?

かおる
記紀神話によると、たしか、スサノヲは、高天原を追放されて出雲に降りたわけですよね?
高天原=伊勢なら、スサノヲは、伊勢出身だったとゆーことになっちゃいませんか?
つづき
スサノヲは、伊勢出身じゃとな?

かおる
そ〜ですよ? 師匠の論理展開なら、伊勢が高天原なら、スサノヲも伊勢出身になっちゃうじゃないですか?!
明らかにおかしいでしょう?




伊勢が高天原なら、
高天原から追放されて出雲に降りたスサノオは、
伊勢出身の神ということになる?





つづき
何か、不都合でもあるのかね?

かおる
不都合、大有りですよ! なんで、スサノヲが伊勢出身なんですか?
そんなわけ無いじゃないですか! 師匠の説は、あまりにも常識はずれでおかしいですよ本当に!
つづき
つまらぬ常識は捨てさらねば、真の古代史は見えてこぬのじゃと、何度も言っておるじゃろう。

かおる
だって〜、出雲で活躍したスサノヲが、
伊勢出身とかって言われても納得できないですよ!

つづき
スサノヲは出雲で活躍したが、けして出雲出身では無いのじゃ。
伊勢出身とまでは言わぬが、高天原を追放されて、出雲に降ったと、記紀神話は明記しておるじゃろう。 



スサノヲは、伊勢から追放されて出雲に降ったのである。



かおる
そんな、ムチャクチャな……伊勢なんて、スサノヲと何の因果関係も無いでしょう?

つづき
ところが、さにあらず。
伊勢は、意外に出雲と因縁が深いのじゃ。


伊勢の名の由来となった「伊勢津彦」という首長は、
又の名を、出雲の神の子、出雲建子命、櫛玉命という。

伊勢津彦は、神武の皇軍に国譲りを迫られた。
国は譲ったものの、自分は屈することなく神風に乗って信濃へと飛び去ったという。
天皇は歓びて国つ神の名をとって、「伊勢」と名付けられたという。
(伊勢風土記 逸文)

神武も、国見丘で、伊勢の神風を讃える歌を歌っている。
(日本書記)

倭姫命が、天照大神から神託を受けたときも、神風の言葉が見られる。
是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國
「神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の波の敷浪の帰する国、傍国の可怜(うま)し国なり、この国に居らむと欲(おも)ふ。」
(日本書記)

古事記に登場する、出雲健は、ヤマトタケルに出雲で討たれている。

伊勢津彦は神風に乗って信濃に去ったが、
神話に登場する雲をはらう風の神は、級長津彦(シナツヒコ)という。 信濃(シナノ)と同源か?
諏訪大社には、風を祀る風祝がおかれたという。

三重県には「雲出川」がある。 出雲との関係を感じさせる。

雲出川は、伊勢市と、津市の間にある。


かおる
え〜?? 伊勢の名の由来となった伊勢津彦の別名が、出雲建子命というのは、
どういうことなんでしょう??
つづき
伊勢と出雲が、関係しあっていても、何も不思議ではない。
伊勢が高天原であったならばな。




天照大神と、素盞鳴尊は、姉弟の関係であり、はじめは高天原に同居していた。

神風の伊勢国と、八雲たつ出雲は、対の関係だったかも知れない。

日は、海を照らす。
雲は、日を隠す。
風は、雲をはらう。
海は、風を招く。

日、雲、風、海は、古代の倭人の世界観を表しているのかも知れない。



かおる
"伊勢"と"出雲"に、"風"と"雲"とゆ〜関係があったなんて、僕は初耳ですよ〜!
本当だったら、大発見ですねっ!
つづき
スサノヲと因縁を持つ地は、出雲ばかりでなく、近畿一帯にも存在しておるのじゃぞ。





スサノヲの子、五十猛神(イソタケル)は、紀伊国(和歌山)で祀られている。

五十猛神は、樹木を育てる神。
(日本書記)

大己貴神は、八十神の迫害にあって、木国(紀伊)の大屋毘古のもとへ向かった。
(古事記)

伊勢(イセ)と、五十(イソ)は、音が通じる。
木国(紀伊)はスサノヲのいる根の国と関係がある?



天下を造った大己貴は、出雲で揚言したとき、不思議な光が海を照らした。
幸魂・奇魂が現れ、「大和の国の三諸山に住みたいと思う」と言った。
これが、大三輪の神である。

一書では、大国主神は、大物主神とも、国作大己貴命とも、葦原醜男とも、八千矛神とも、
大国玉神とも、顕国玉神ともいう。
(日本書記)




一書では、スサノヲと稲田姫との子を、
狭漏彦八嶋篠(サルヒコヤシマシノ)という。
同じ「サル」の名を持つ猿田彦大神(サルタヒコ)は、伊勢で祀られている。

高天原が、出雲で大己貴に国譲りをさせた後、
ニニギが降臨するときに道案内した猿田彦大神(サルタヒコ)は、天鈿女神を連れて伊勢へと向かった。
(日本書記)

天鈿女神は、天の岩戸でも天照大神と関係している。
伊勢が高天原なら、天鈿女神は里帰りしたことになる。



伊勢国・紀伊国・大和国には、スサノヲの痕跡が見える!



スサノヲ勢力は、近畿以西を支配していた?

考古学的にも、同じ銅鐸文化の地域である。




かおる
ほほぉ。 すると、古代、スサノヲの一族は、西日本の広域を支配していたというわけでしょうか?
伊勢津彦のいた伊勢も、スサノヲの支配下にあったと?
つづき
記紀神話では、スサノヲは傍若無人な荒ぶる神として、高天原の嫌われ者じゃった。


古代の倭国では、東海の高天原(高海原)・アマテラス勢力と、
近畿以西の出雲・スサノヲ勢力との間で、
倭国支配権をめぐる攻防が、伊勢の地であったということじゃ。



近畿以西・スサノヲ勢力と、東海の高海原(?)・アマテラス勢力図



三重の雲出川周辺には「津市」「伊勢市」がある。
まさしく、この地に「伊勢津彦・出雲健子命」がいたことは疑いようが無い!


近畿の西方から、うまし国(伊勢)に攻め入ろうとしていた部族がいたなら、
奈良盆地と伊勢をつなぐ街道沿いの雲出川の流域が、戦いの最前線であったろう。

出雲建子命=伊勢津彦は、雲出川に陣取っていたスサノヲ勢力の末裔に違いない!



雲出川をさかのぼれば、畿内・奈良へと抜けることができる。
近畿を支配していたスサノヲ勢力は、雲出川を下って、
「うまし国」に攻め入っていただろう。
「出雲の軍勢が出現する川」という意味から、
「雲出川」と呼ばれたのであろう。



かおる
うひゃ〜。

つづき
記紀神話も語るように、スサノヲは、高天原に来ては暴れまくっていた。
その舞台は、まさに伊勢にあったというわけじゃな。

天照大神は、寛大な気持ちでスサノヲを許していたが、
ついに天の岩戸に隠れてしまった。

大乱ほどではないものの、スサノヲ勢力とアマテラス勢力との小競り合いがあったのであろう。
そんなある日、日食が起きたとしたらどうであろう?
スサノヲ勢力は、日神(アマテラス)に畏れおののいたに違いない。

記紀神話が伝えることによれば、
天の岩戸事件の後、スサノヲが高天原に乗り込んできたとき、天照大神は武装して待ち構えた。
が、スサノヲは、和睦を求め、ウケヒという契約を結び、スサノヲは高天原から遠く離れた出雲へ去った。

スサノヲは、アマテラスの威光に平伏し、タカアマハラを去った。




その後、高天原の高皇産霊尊は、(スサノヲ勢力が支配していた)葦原中国平定を決めた。
天穂日命、天雅彦、経津主神、甕速日神、桶速日神、武甕槌神などの神を、
葦原中国に君臨していた大己貴神のもとに送り、国譲りを迫った。
出雲の建御名方神は、諏訪へと逃れた。

日本書記によると、天穂日命は、大己貴神におもねって三年たっても復命しなかった。
系図では、天孫の天穂日命の孫が、伊勢津彦・出雲健子命、その末裔が、
出雲国造・千家・出雲大社社家となっている。
信濃に去った伊勢津彦は、武蔵国造の祖でもある。




畿内からスサノヲ勢力を一掃したのは、火明命ことニギハヤヒ(尾張氏の祖)であろう。
そして、弟のニニギが、さらに九州まで遠征し、筑紫の日向を平定した。




そして、時は流れて、天孫の神武が畿内へと舞い戻った。
近畿は、ニギハヤヒが王権を築いていたが、神武の勢いに押されて、国譲りをしたのである。




かつて東海は「タカアマハラ(高海原)」と呼ばれていたが、時を経るうちに記憶は薄れ、
天照大神を祀る海人(あま)の国=うまし国は、後に、伊勢津彦の名を取って、「伊勢」と呼ばれ、
人々の間からも、神々の故郷「タカアマハラ(高海原)」は、
天上界の物語「高天原」として形を変えて伝承されていったのであろう。

東海=タカアマハラ勢力の倭国平定の拡大政策によって、
西日本を平定していたスサノヲの子孫である、伊勢の伊勢津彦や、出雲の建御名方神は、
はるか東国の山深く、信濃・諏訪へと去ったのである。

しかしその東海=タカアマハラ勢力も、神武によって逆に平定されてしまったというのは、
歴史の皮肉というものであろう。



かおる
スサノヲの子孫が、出雲から諏訪とか東国の奥深くに追われたということは、
やはり、西から追われたと考えるべきで、高天原勢力は東海には存在し無かったということではないですか?
つづき
それは、おかしい。


スサノヲの子孫は、出雲〜近畿で勢力を誇っていた。
もし、九州方面など西から攻められたのであれば、当然、東海に逃げ延びればよい。
東海が高天原で無いなら、尾張には豊かな手付かずの土地が眠っておることになる。

しかし、スサノヲの子孫は尾張には定住せず、さらに東国の、土地も狭い諏訪・信濃へと逃亡することになった。
なぜか? 答えは明快! 東海には、はじめから高天原勢力が存在したからである。


かおる
でもでも、高天原とおっしゃる東海勢力は、結局、畿内で生まれた大和政権に取り込まれてしまいましたよ?
尾張氏は、”尾張連”として、大和朝廷に仕える身分に貶められてますが?
つづき
よくおもいおこすがよい。
尾張は、熊襲や蝦夷と違い、大和に討伐されたという記録は全く無いのじゃ。


神宝であり武器である草薙の剣を尾張に預けるなど、
非常に親密な同盟関係が、王権発足当初から、大和と尾張の間にあったことは確かである。

東海を母体とした高天原は、ニギハヤヒを王として、一度は近畿・東海を勢力下に治めたが、
九州で生まれ育ったと言われる同じ一族の神武天皇(ヒコホホデミ・イハレヒコ)の侵攻を許した。

近畿・東海(高天原)の王だったニギハヤヒは、神武を同族と認め、神武に政権を移譲した。
しかし、ああ、悲しいかな、神武天皇は、畿内勢力が自分と同族であることを忘れていたように、
神武一族に伝えられていた民族のふるさと「タカアマハラ」が東海地方であったという認識もあるはずもなかった。
本来は、敬うべきタカアマハラ=東海地方を逆に支配下に治め、アマテラスを祀ることもなかった。
神武天皇が、橿原で即位したときも、祀った神は、天照大神ではなく、葦原中国平定を指示した高皇産霊尊であった。



かおる
天孫のニニギが九州に降ってる間に、
いつのまにか、天孫と高天原の立場が逆転していたということですか〜。
つづき
天孫集団が、九州で、渡来人のもたらした先進技術を手に入れたということも、
立場が逆転した理由になろうて。
かおる
う〜ん、でも〜、やっぱり僕は、師匠の強引な説にはついていけませんよ〜。
結局、いつもの語呂合わせのこじつけばかりじゃないですか?


どんなに東海地方=高天原だと説明されても、
証拠が無い以上、与太話にしか聞こえませんよ?




つづき
いやいや、無理もないじゃろう。 決定的な証拠を示せと言われれば、わしも辛い。
では、話を先に進めるとするか。

日本書紀によると、神武東征の後、
天皇の業績について詳しく書かれはじめるのは、後の崇神天皇の御世である。


かおる
倭国の政治体制が軌道に乗ったということでしょうね。

つづき
じゃが、病気が蔓延し、百姓は流離し、反逆する民もいたそうじゃ。



そこで崇神天皇は、天照大神と、倭大国魂神を祀ったという。


民衆は、新しい王を受け入れ難く感じ、素直に服従しようとしない者が多かったのじゃろう。


かおる
崇神紀の、「大物主大神を祀る」というくだりですね。
民衆が昔から崇めていた神を、天皇が祀ることで、騒乱の収拾をはかったということでしょう。

でも、日本書紀のこのへんのくだりは、いろんな神様の名前が出てきて混乱してよくわかんないなぁ?

つづき
ハツクニシラスとも呼ばれた崇神天皇が、はじめて祀った神の事例じゃ。
ここは、じっくり吟味する必要があろうて。


はじめに崇神天皇は、御殿の内に、天照大神と、倭大国魂神を祀ったが、
神の勢いを畏れて、御殿から神を離すことにしたという。

天照大神は、豊鋤入姫命に託して、大和の笠縫邑で祀った。
倭大国魂神は、淳名城入姫命に預けて祀った。
ところが淳名城入姫命は、体が痩せて、髪が抜け落ち、祀ることができなかったという。

崇神天皇は、「神浅茅原」で占いをしてみた。
すると倭迹迹日百襲姫が神憑り、大物主神が現れ、自分を祀れと要求してきた。



崇神天皇の御世にお祀りされた神々は、次の三柱である。

天照大神大物主神倭大国魂神




このとき、崇神天皇に対して、大田田根子を祭主として、大物主神を祀らせ、
市磯長尾市を祭主として、倭大国魂神を祀らせるように進言したのは、次の三人である。
共に、同じ夢のお告げがあったというが、共謀して口裏を合わせたであろうことは言うまでもない。



崇神天皇に、神を祀ることを進言した側近達




崇神天皇の祀った神々の謎

崇神天皇は、どの神をどのように祀れば良いのか、
よくわかっていなかったフシがある。
王家では、古代からの神話伝承の多くが失われていたようである。

国が乱れるのを防ぐため、
側近の言われるままに、これらの神を祀ったのである。

三柱の神には、
天神地神倭神という関係が見えないだろうか?
倭神=国つ神系の倭国(やまと)の神

系統天神地神倭神
祭神天照大神大物主神倭大国魂神
備考後に、倭姫命に託されて
伊勢に移り祀られる
三輪山の神
蛇神?
大和平野に鎮座する神々の主神
ということらしい
斎場笠縫邑大神神社大和神社
祭主崇神天皇?
天孫
大田田根子
大物主神の子孫
市磯長尾市
椎根津彦の子孫
倭国造・倭直の祖
巫女豊鋤入姫命
父:崇神天皇
母:紀伊国荒河戸畔の女
遠津年魚眼眼妙媛
倭迹迹日百襲姫
父:孝霊天皇
母:倭国香媛
淳名城入姫
父:崇神天皇
母:尾張大海媛
巫女の
その後
倭姫命
二代目の巫女が、
各地を巡幸して伊勢に至る
大物主神の正体を見て、
箸でホトを突いて死んだという
髪が抜け、体が痩、
お祀りができなくなった



ようするに、これらの神を祀ることで、
連合国・大和王権が成立したということ。

天照大神以外の神は、巫女と相性が悪かった?

巫女との相性の良さが、最終的に天照大神が皇祖神として生き残った理由かもしれない?



〜それから、他神(あたしかみ)として八十万の群神を祀った。
天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)・神地(かむところ)・神戸(かむべ)をきめた。
ここで疫病は収まり、国内はようやく鎮まった。
(日本書記)

翌年、伊香色雄命(物部氏の祖)の勅により、
石上神宮(大和国山辺郡)に布都御魂大神が祀られる。
摂社・出雲建男神社。
大水口宿禰は、伊香色雄命の子である。



かおる
おっと〜。 三柱の神に、大和建国にまつわる謎を見出そうというわけですね?
天神・地神・倭神」の関係とは、いったい?
つづき
倭神」は、わしの造語じゃ。 深い意味は無い。
倭大国魂神」など、「倭(やまと)」を冠する神や人名の系譜と思ってもらいたい。

倭大国魂神」は、
おそらく、倭国(やまと)建国のときに、はじめて祀られた神であろう。


倭大国魂神の祭主・市磯長尾市は、椎根津彦の系譜じゃ。
椎根津彦は、神武東征のとき、速吸門にて海路を案内した海人という。
後の、倭国造・倭直の祖である。
ということは倭国建国の最重要キーマンということじゃな。


椎根津彦が、倭国造の祖なら、
神武が東征途中に、椎根津彦と速吸門で出会うまでは、
倭国(やまと)という名前の国は、存在していなかったということになる?


かおる
ふむふむ。
そーすると、神武東征神話も、史実っぽく聞こえますね。 年代まではわかりませんが。
つづき
天皇の祖神の天照大神に加えて、2柱の神、大物主神・倭大国魂神を祀るように進言した3人の側近も、
それぞれ、天神・地神・倭神の系統の部族だったのではあるまいか?





伊勢麻績君
大水口宿禰
倭迹速神浅茅原目妙姫



崇神天皇に進言した、この3人の側近は、
倭国統一のために、自分達の祖神を共同で祀ることを提案したと考えられる。

大水口宿禰は、饒速日命を祖とするが、滋賀で大己貴命・素戔鳴尊を祀っていた?
倭迹速神浅茅原目妙姫は、倭大国魂神と同じ「倭」系であろう。

ならば、伊勢麻績君は、天神系の官僚だったはず。

系統天神地神倭神
祭神天照大神大物主神倭大国魂神
側近伊勢麻績君
伊勢出身の官僚=天神系?
大水口宿禰
大己貴命・素戔鳴尊を祀る?
倭迹速神浅茅原目妙姫
倭神系の巫女?


伊勢」の名前の由来は、神武東征のときに登場した、「伊勢津彦」からとったもの。
ここで3柱の神を祀ったのは、天照大神が伊勢まで巡幸される前の話なので、
それ以前から、「伊勢」は「天神に由縁する言葉」だったことになる?
「伊勢麻績君(いせのおみのきみ)」という名前は、「イセアマカミ」の転かもしれない。


つまり


伊勢天神の国




かおる
あれあれ?

つづき
崇神紀に登場する、3柱の神、3人の側近に、因果関係が全く無いとは言い切れぬじゃろう?

かおる
う〜ん、名前だけで強引に結び付けてるような気もしなくはないですが……。
伊勢麻績君は、伊勢出身なんでしょうか?
つづき
さらに興味深いのは、巫女のほうじゃ。
国同士が連合するときには、互いの姫を相手の王に嫁がせるのが、世の慣わしであろう?
かおる
ええ、いわゆる政略結婚ですよね。
政治に利用される姫君もお気の毒ですが。
つづき
それぞれの神を祀る巫女は、それぞれ「天神・地神・倭神」の系譜を持ち、
互いに違う神の巫女として祀っているのではないかな?



よく、関係を見てみると、
天神地神倭神の系譜を母に持つ巫女が、
互いの神を交換して祀り合っているように見える。

はたして、天神系の巫女は誰だろうか?

系統天神地神倭神
祭神天照大神大物主神倭大国魂神
祭主崇神天皇?大田田根子市磯長尾市
側近伊勢麻績君大水口宿禰倭迹速神浅茅原目妙姫
斎場笠縫邑大神神社大和神社
巫女豊鋤入姫命
父:崇神天皇
母:紀伊国荒河戸畔の女
遠津年魚眼眼妙媛
倭迹迹日百襲姫
父:孝霊天皇
母:倭国香媛
淳名城入姫
父:崇神天皇
母:尾張大海媛
備考紀伊国には、
五十猛神が祀られている
スサノヲと関係する地神系
高天原系の巫女では無いはず
「倭」を名前に持つ者は、
倭国建国に貢献した?
倭国は地上の国なので、
高天原系の巫女では無いはず
尾張氏の祖の天火明命は、
ニニギと同じ天照大神の系譜
「尾張」=天神系
高天原系の巫女か?
巫女の
その後
倭姫命
父:垂仁天皇
母:丹波国日葉酢媛
二代目の巫女が、
各地を巡幸して伊勢に至る
大物主神の正体を見て、
箸でホトを突いて死んだという
髪が抜け、体が痩、
お祀りができなくなった

上記の神と巫女の組み合わせでは、
尾張大海媛を母に持つ、
淳名城入姫が天神系の巫女となる?




つまり


やっぱり尾張が、天神系=高天原だったっ!!



かおる
うひゃ〜。

つづき
いかがかな? もし、尾張が天神系でないとしたら、神と巫女の組み合わせが綺麗にまとまらぬであろう。

かおる
こ、こんな表で、高天原=尾張の論拠にしようってことですかっ?
ぼ、僕は認めませんよ! 単なる偶然です! トリックですっ!
つづき
残念じゃのぉ。 まだ納得しかねるのかね?

かおる
な、納得なんてするもんか〜っ! 絶対にしませんよ〜っ! 僕はっ!















伊勢神宮の式年遷宮は、持統天皇によって始まった。
奈良では渡来人の先進建築技術による法隆寺が完成していたが、
伊勢神宮は日本古来の神明造である。
当時の渡来人が天神の祭祀に関わっていないことの証であろう。

持統天皇は、天武天皇(大海人皇子)の后で、
持統天皇の母は、遠智娘−またの名は美濃津子娘
壬申の乱で、天武天皇は、天照大神を祀り、尾張勢力の協力で勝利した。

後に、持統天皇は三河(穂国)に行幸されている。
東海地方と縁の深そうな持統天皇の諡号は、
高天原廣野姫天皇」(たかあまのはらのひろぬのすめらみこと)である。
そして、高天原を神々の舞台とする日本書記が、
始めて”天皇”を名乗った天武天皇の勅令で編纂された。

古事記を暗唱した稗田阿礼は、
猿田彦大神と伊勢へ降った天鈿女神を始祖とする猿女君の一族であるという。

伊勢神宮には、天照大神に奉仕する"斎宮"が設けられ、
初代斎宮には、天武天皇の娘、大来皇女(大伯皇女)が選ばれた。
以後、南北朝時代まで天皇家から伊勢神宮に未婚の皇女が送り込まれた。
まるで、天皇が伊勢神宮に服属しているかのようである。






豊受大神宮にある”三ツ石”
式年遷宮の際には、まず、ここで御祓いをするという。
由来はよくわからないとのこと。

岩手にも「三ツ石神社」があり、三つの巨石をお祀りしている。
環状列石などのある東国の磐座信仰(?)の名残かもしれない。
豊受大神宮こそが、地付きの神と言う説もあるようだ。
伊勢は、古代から地元民の聖地であったのだろう。















付録・年表




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