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弥生時代の宗教革命


November.25.2004





つづき
というわけでじゃ。

かおる
何が、「というわけ」なんですか〜?

つづき
これまで解明してきた、超古代の三大信仰をまとめてみようぞ。
今まで言霊を精緻に検証してきた成果じゃな。



超古代の三大信仰

いは
(巨岩)
かに
(巨木)
みか
(巨甕)
いはふ(祝う)
神を称えること
かなふ(叶う)
願いが叶うこと
みかく(磨く)
神を崇めること
石器時代
超古代の最も原始的な信仰。
「祝う」という言葉の発祥。
「いはろ」は古代人の住家。
家族単位で生活していた時代。
磐座(いはくら)は御神体。
縄文時代
木「かには」を信仰する集団が、
大願成就のために巨木を立てた。
人々が一致団結して「ムラ」が出来た。
古代出雲大社・諏訪大社など。
「柱」は神を数える言葉
「さるかに合戦」は信仰のなごり。
弥生時代
酒・食料を貯蔵する土器(瓶・甕)は、
富の象徴であり、古代人の宝。
立派な土器を持つことは権力の証。
神(かみ)の語源は「瓶・醸(かみ・かむ)」。
水を張った瓶をカガミと呼び崇めた。
丹波の「甕襲(みかそ)」という人。
北九州の甕棺を埋める風習。
縄文時代の火炎土器からの流れ。
参考コラム参考コラム参考コラム




かおる
ほとんど、ネタじゃないですか〜!(苦笑)

つづき
いやいや、このようにいろいろ分かれていた信仰が、どのように一つの神道にまとまったかを考えれば、
日本古代史の姿が、おぼろげながら見えてくるというものじゃ。
かおる
どういうことですか?

つづき
現在の「かめ(瓶)・みか(甕)・かみ(神)・みかど(帝)」という言葉を生んだ古代の人々は、
土器(瓶・甕)」を交易品としたり、王へ献上しておったと考えられよう。
かおる
そうですかぁ?

つづき
弥生時代、日本全国から土器が集中していたのは、実は畿内なのである。
日本海側のクニの海上交易の中心地が、若狭湾であり、甕襲(みかそ)のクニ・丹波じゃったであろう。



甕(みか)=神に捧げる神聖な瓶=土器


古代の土器商人の元締めこそ、
縄文の流れを受け継ぎ、垂仁天皇に勾玉を献上していた、
丹波の「甕襲(みかそ)」じゃったに違いない!


日本書記に、武烈天皇の後継者として、
丹波国桑田郡の倭彦王を迎えようとしたとの記述もあり、
大和朝廷と丹波は古代より深い関係を持っていた。
丹波には、こうした豪族と見られる古墳も多い。

大量の甕(みか)土器は畿内の大王のクニへと運ばれたじゃろう。
甕(みか)を神聖視し崇めていた首長が、
みかど(帝)」として古代より畿内に君臨していたに違いない!

みか(神聖な)+と(人)=みかと=みかど(帝)


御門(みかど)」という意味は、後世の当て字。


大阪和泉市池上町・池上曽根遺跡では、紀元前1世紀、弥生中期最大の集落建築跡がみつかっている。
環濠集落の中心地に、神殿、倉庫群が配置されていた。
紀元前から畿内に巨大な王権が存在していたことは確かである。



かおる
ほほぅ? と、いうことは……?

つづき
みかど(帝)」を頂点とした大和朝廷は、畿内発祥と考えられるわけじゃ。

かおる
あ〜。 やっぱりそうなんだ!
じゃ、邪馬台国も畿内にあったんですね!
つづき
いやいや、そのように単純には決められぬ。

かおる
どうしてですか?

つづき
古墳時代では、畿内は日本の中心都市じゃったが、
弥生時代では、文化の中心は、北九州じゃった。

弥生時代始めまでは、同じ「巨甕信仰」を持っていたのが、
北九州に銅器や鉄器が伝わると、九州と畿内に勢力が別れていったのじゃ。
九州では、「銅剣・銅矛」を祀り、
畿内では、「銅鐸」を祀り始めた。

魏志倭人伝に、卑弥呼は鬼道を行っていたとあったが、
銅鐸を祀っているというような記述はない。
死者を甕(カメ)棺に埋葬する儀礼も、北九州だけのもの。

同時に北九州は、朝鮮半島との貿易により、
鉄器」をほぼ独占しておった。
九州と畿内は、交流は薄かったのじゃ。



かおる
では、畿内の大和国とは別に、九州に別の国があって、それが邪馬台国だったということですか?

つづき
九州は、古来より大陸や半島と交易し、鉄器もいち早く実用化した先進国じゃ。
状況証拠から推理すれば、魏の使者が訪れた九州に、邪馬台国があった可能性が最も高いじゃろう。
かおる
魏志倭人伝の邪馬台国の時代に、すでに畿内を中心に連合国家ができていたとは、
考えられないのですか?
つづき
卑弥呼が死んだとき、男王を立てても国中がまとまらず、巫女を立てたことで収まったという。
民を権威で統率できる「みかど(帝)」という王は、邪馬台国には居なかったのじゃ。
かおる
確かに、魏志倭人伝の人名や役職名にも、「みかど」は出てこないようですね?
というか、この当時に「みかど」という言葉があったかどうかもアヤシイですよ。
つづき
みかど」はともかくとしてもじゃ、3世紀、日本はまだ不安定な状態じゃった。
畿内から九州までもを掌握できた王権が存在していたとはとても思えぬな。
かおる
でも、畿内では、卑弥呼の時代にすでに纏向遺跡で前方後円墳が出来始めてるみたいですよ?
卑弥呼が死んだときも、古墳が作られたというような記述が魏志倭人伝にありますが?
つづき
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓は、前方後円墳だったという証拠は何もない。
首長の墳墓くらいはどこのクニでも作ったじゃろう。
かおる
2世紀末の倭国大乱で、すでに畿内王権が勝利し、卑弥呼が擁立されたという見方が主流ですが?
鉄貿易の覇権争いで、畿内勢力が北九州勢力を打ち負かしたという。
つづき
ならば、3世紀はじめの頃から、畿内で豊富な鉄器がもっと発掘されてもよさそうなものじゃ。


最新技術である鉄器の出土で、畿内が北九州を上回るのは、
古墳時代以降である。

3世紀初頭まで現れる、瀬戸内海の高地性集落は、
戦闘に備えての防衛的なものであろう。
すでに畿内の王権が九州まで支配していたのであれば無用のはずじゃ。

そもそも、北九州勢力は、鉄器を大量保有し、
経済的にも朝鮮半島との繋がりの方が強かったのじゃ。

交易も少なく、武力でも劣る、遠くの畿内出身の巫女を共立し、
平伏するなどという事態が、どのような理由でありえるのか?





この勢力図が、3世紀末まで続いたとするのが、邪馬台国九州説。
卑弥呼が畿内で共立されたとする邪馬台国畿内説では、北九州は畿内と連合していたわけなので、
2世紀末までに畿内が北九州より対等以上の力関係を得ていなければならない。
しかし、3世紀前半に、畿内が大量の鉄資源を得たという証拠は見つかってない。
畿内で鉄器が発掘され始めるのは古墳時代なので、
邪馬台国論争では、常に古墳の年代が問題になるのである。

3世紀の畿内の纏向遺跡からは、南九州、瀬戸内、吉備、山陰、北陸、伊勢など広範囲の土器が持ち込まれ、
市場が開かれ、本州での流通・政治の中心地として栄えていたとみられている。
しかし、北九州製の土器はほとんど見つかっていない。
畿内・纏向では、北九州と対抗するクニ同士が連合したかのようである。

一方、伊都国の中心とされる三雲遺跡から、3世紀でも豊富な鉄器を得ていた。
鉄製品の流通が畿内に管理されていたわけでは無いようである。


かおる
すると、魏志倭人伝の邪馬台国は九州のクニことで、
畿内で生まれた王権とは別のものだと?
つづき
多くのクニが日本中に群雄割拠していたのじゃ。 魏志倭人伝は、九州のクニの姿を伝え、
一方、畿内にも、大和朝廷へ繋がる王権が誕生していたということじゃろう。
かおる
ひとつの仮説としてはアリかもしれませんけどね〜。
では、どのように、大和朝廷が日本を統一したかということですが……。
つづき
弥生時代末期、鉄貿易では九州は畿内を凌駕し、 宗教でも卑弥呼の鬼道と銅鐸文化は別物であった。
そのどちらの体制も崩れ、神道が生まれ、畿内を中心に大和朝廷が興ったということじゃ。



武力や経済で劣っていた畿内勢力が、
日本の実権を握りえたのはなぜか?


これは、全国規模の宗教革命があった
という事を意味しておる!


かおる
え〜? 宗教革命って何のことですか?

つづき
弥生人が神に祈っていたこととは何か? 豊作祈願に他あるまい?


弥生時代後期になり、より農業の生産性向上が求められると、
祭祀より「暦(ひよみ)」が重要になってきたじゃろう。



魏志倭人伝の「魏略」の注釈によると、
倭人は「正歳四時を知らず、ただ春耕秋収を記して年季としている」ある。

3世紀始めまで、倭国の「暦(ひよみ)」は、
大陸からは原始的なものと見られていたのじゃ。


魏志倭人伝の頃、倭国の暦は単純な四季を表すものでしかなかった。
しかし、その後、大陸から最新の暦を輸入したことじゃろう。
高度な暦を知るということは、革命的な進歩をもたらすのじゃ。

それまで神頼みじゃった農業の有り方を、大陸の「暦」を使い、より近代的な農法に切り替えたということじゃ。
作付けや収穫の時期や豊作祈願を、春を告げる草花や占いや銅鐸の祀りに頼っていたことが、
大陸の暦という高度な歴法と、豊富な鉄の農具によって確実に実現できるようになり、
銅鐸やト占を行う巫女は用済みとなったのじゃ。


この経緯を踏まずして、西日本という広域を支配する権力を掌握することができようか?
実際に、永続的な豊作という結果がもたらされ、生活が豊かになってこそ、
武力に頼らない中央集権社会は機能するのである。


「卑弥呼は、鬼道で民を惑わしていた」と揶揄されておった。
大和を中心に中央集権化される変革がおきたのは、
倭国が、大陸から原始的と見られていた3世紀よりも、
後の時代と考えるほうが自然じゃ。


かおる
卑弥呼の死後も争いがあったようですが、
倭国を支配する王権の争奪戦争だったと言われてますが……?
つづき
それとは別の、宗教的な変革が、卑弥呼の死後、3世紀末にあったじゃろう。


暦(ひよみ)」を使いこなす首長が登場したのじゃろう。
そもそも、国津神のほうが、日本古来の地域密着型の神であり、
暦(ひよみ)」=太陽=アマテラスに代表される天津神は、支配者層の神じゃ。



この頃、日本はまだ「(みか・かめ)」を崇めていた時代であり、
太陽(アマテラス)信仰を持ってはいなかったじゃろう。
太陽を象徴するとされる「鏡(カガミ)」は、
古代では「水鏡=瓶(カメ)=土器」じゃったはず。


かおる
弥生時代終わりには、大量の鏡が登場してますが、太陽信仰によって好まれたのではないのですか?
鏡が光を反射する様を、太陽のように古代人は思ったのでは?
つづき
太陽信仰が生まれ、鏡と結びついたのは、鏡が伝わってから後の時代じゃよ。

カガミ」は、もともと姿を映す水瓶であり、お神酒を入れた瓶のことじゃ。
後に、「」が伝来すると、水鏡のように姿を映すことで「カガミ」と名づけられたのじゃ。
かがむ(屈む)」や「かむ(醸む)」は、太陽とは関係の無い動詞じゃ。


かおる
だから〜。それは、ネタでしょう?

つづき
ともかく!


畿内の銅鐸祭祀や、卑弥呼の鬼道が廃れたのは、
それらを超越した「神道」が登場したからに他ならない。
日本に神道を導入した者は、アマテラスを最高神とする天津神達じゃ。




かおる
アマテラスは、卑弥呼の投影ではないのでしょうか?

つづき
いやいや、卑弥呼は敗れ去った側の人物である。
たとえ、太陽の巫女じゃったとしてもな。 いや、太陽の巫女じゃったことが災いしたのじゃろう。

卑弥呼は、まだ原始宗教的な太陽の巫女じゃったろう。

卑弥呼が死んだとされる248年、日本全域で日食が起きていた。
当時、高度な暦を知り、天文現象を予知できた人物がいたとすれば、
日食を利用して、政権転覆を図ることは簡単じゃったろう。





西暦248年 9月 5日 午前8時 日本で部分日食

夜明け直後、東の空で、日本一帯で日食が見られた。
卑弥呼が死んだ年と一致し、関係が考えられる。

実は、この日に皆既日食が観測されたのは、
魏の首都、洛陽付近である

中国では、後漢の時代に日食の周期が知られていた。
魏の天文学者は、この日の日食を予測していたはずである。

卑弥呼の失脚の理由が日食なら、卑弥呼は大陸の暦を知らなかった。
大陸の暦を知っていれば、卑弥呼を陥れることは簡単である。



赤帯は、月の本影。 中心の赤い線の先で皆既日食が見られる。
(講談社ブルーバックス/太陽系大紀行2/太陽系シミュレーターより)




日本神話で、アマテラスを天の岩戸に隠れさせた原因を作ったのは、
国津神のスサノヲであり、再び岩戸を開けさせたのは天津神達である。


太陽を祀る神=天津神

太陽を意のままにできた

日食を把握していた

大陸の暦を知っていた




つづき
日食の予測は、後漢の時代には可能じゃった。
当時、大陸の暦を知りえた人物がいたとすれば、日食を利用して人心を掌握することは簡単じゃ。
かおる
当時の日本人に、漢の暦を知っていた人がいたのでしょうか?
卑弥呼でも知らなかったように、「」といえば、当時の魏でも最高機密のはずですし。
つづき
思い出すがよい。


北九州は、「漢委奴国王」の金印を貰ってたように、
漢代より深い交流があったのじゃ。

門外不出とも言えるを情報を、卑弥呼も知りえぬルートで入手できた何者かがいたのじゃろうな。
古くから漢と通じていた豪族か、あるいは、渡来系学者を側近に従えていたのかも知れぬ。
金印を授けられていた豪族の末裔なら、密かに暦を手に入れることはたやすいじゃろう。


最新の暦は、卑弥呼が絶対支配する九州では拒まれ、
先に畿内へもたらされたに違いない。
科学的な暦は、巫女の優位性を揺るがせるものである。


暦を手に入れた畿内の王は、農業の有り方を変え、実りを倍増させたじゃろう。
畿内に土器が集中したのは、クニが豊かになり、土器の売買が好調となったからじゃ。
潤沢な富に支えられ、交易ルートを確保し、鉄を輸入し、農具や武器に仕立て、国力もアップしたじゃろう。
そのような強大な力を手にした「みかど(帝)」のもとに周囲のクニも集結していったじゃろう。

かつて、畿内で、甕(みか)を信仰した人々が、3世紀の間に、
暦(ひよみ)を用いた、近代農法の集団へと変わったのじゃ。
そして、日食をきっかけに、北九州と畿内の宗教的立場が逆転したのじゃ。

日食は、日本中の人々が目撃したはずである。
暦(ひよみ)を知る畿内王権は、日本全国の首長から一気に指導力を認められたであろう。
畿内王権の指導にしたがった農法の技術は、東日本全体へ伝わっていった。
豊作は、人口増加をもたらし、労働力も増えたじゃろう。
だからこそ、巨大古墳をも作れるようになったのじゃ。


そして、暦(ひよみ)の象徴「太陽神・アマテラス」を天津神として擁立し、
全国の祖神・国津神の上に立つ神として崇め、
民を導く帝(みかど)を、アマテラスの系譜とし、
統一国家「やまと」を建国したのじゃ。




かおる
すると、アマテラスを系譜とする日本神話は、4世紀以後の産物ということでしょうか?

つづき
古代の伝承を、天津神系を中心に体系的にまとめたのが4世紀以後じゃろう。
なぜなら、記紀神話にも、「銅鐸」を祀る記述が出てこないからじゃ。




古代日本社会にみる宗教の変遷

九州畿内山陰東北
いは信仰
日本全国で、狩猟採集を祈願する巨石信仰広まる
火の山も「磐座(いわくら)」として信仰の対象
石器時代
いは信仰
阿蘇山の立岩「タケイワタツ」
かに信仰
三内丸山遺跡で巨木建築
縄文時代
みか信仰
農業が広まり
土器を祀る「みか信仰」が全国に広まる
かに信仰
出雲・諏訪などで巨木信仰く
弥生時代
みか信仰
巫女がト占を行う
亀(かめ)=瓶(かめ)
死者を甕(カメ)棺で埋葬
九州日田市に豪族
みか・銅鐸信仰
畿内に「みか(甕)」が集中
豊穣を願い、銅鐸が作られる
銅鐸を磨(みか)いて祀る
ミハ(三輪・美和)=ミカ(甕)
カモ(加茂・鴨)=カミ(醸み・神)
かに信仰
銅鐸信仰を
受け入れながら共存
弥生末期
みこ信仰
卑弥呼のト占による、
原始的な鬼道が続く
太陽信仰
暦・天文学など、大陸の思想が、
極秘ルートで畿内に伝わる。
太陽神「アマテラス」が登場する
暦が重要視され、農業が効率化
銅鐸が廃棄される
かに信仰
大和朝廷の東征により
衰退して消える
3世紀
宗教革命
畿内勢力が日食を利用し、
北九州の宗教的指導者卑弥呼の権威を失墜させる
卑弥呼を共立していた北九州勢力は「壹與」を立てるも、
大陸の後ろ盾を失い、北九州は畿内に屈し、没落する
祈りの対象だった「みか信仰・銅鐸信仰」は完全に失われ、
畿内勢力の新興宗教、「アマテラス」が最高神となる
鏡が祭祀として重要視され、大量生産されるようになる
248年
神道
畿内を都に「アマテラス」を祀る「大和朝廷」が興る
暦にならって神事を行い、豊作をもたらし人口が増加
クニが繁栄し労働力が充実して古墳を造営
古代の王を神の子孫の系譜とし、天皇を現人神とする
4世紀以降









かおる
ええと〜、かに信仰とか、みか信仰とか、ネタはともかくとして、
暦を手に入れた王族が、大和朝廷として畿内で誕生したのは、間違いないわけですね?
つづき
そこが問題じゃ。


暦を携えた人物は、どこか他の地より来て、
先住民を手引きし、畿内の王族から政権を奪取したのやも知れぬ。

日本書紀には、畿内の先住民として、ナガスネヒコや、ニギハヤヒが登場し、
物部氏の祖先などとうそぶいている。


かおる
どこか、他の地から来た人って、どこの誰ですか〜?

つづき
難しい質問じゃな。
ただ、当時、最も日食を知りえた人物がいるのじゃが……。
かおる
誰でしょう?

つづき
魏よりの使者、「張政」じゃ。

かおる
ほほぅ? すると、張政が、日食を利用して卑弥呼を女王から引きずり落としたと?

つづき
いや、しかし、動機が考えられぬ。

かおる
一応、魏と邪馬台国は同盟国ですもんね?

つづき
そこでじゃ。 魏と対立していた「」の存在が気になるではないか?
邪馬台国と対立していた、南の狗奴国は、案外、呉と通じておったやもしれぬ。

日本神話のアマテラス・ツクヨミが、イザナギの左目・右目から誕生するエピソードは、
」の存在した、中国南部系の盤古神話の影響を感じさせるじゃろう。
太陽と月の神のイメージは、暦と共に輸入されたものではなかろうか?
日にちの呼び方に使われる「日(ニチ)・月(ガツ)」は、「呉音」なのじゃ。
ちなみに「日(ジツ)・月(ゲツ)」は、漢音である。
日本(ニホン)」は、呉音読みということじゃ。 漢音では、「ジッホン」となってしまう。

畿内で大量に見つかる三角縁神獣鏡も、「」の職人による国産であるようじゃ。
畿内で最古の前方後円墳、ホケノ山古墳で出土した画文帯神獣鏡は、魏ではなく「」の鏡という。
着物は「呉服」という呼び名が残っておる。
もともと熱帯ジャポニカ米も、中国南部原産じゃ。

なにかと「」とは、因縁を感じるではないか?


かおる
すると、呉が、大和建国に関わったということですか?

つづき
まだ、わしは何も言うておらぬぞ?

かおる
では、九州の邪馬台国はその後、どうなったのでしょう?

つづき
畿内の大和朝廷に「吸収」されたのじゃろうな。 なんちゃって。 うひょひょ。

かおる
やっぱりネタだったのか〜。(苦笑)












付録・年表




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