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大和の星読


October.25.2004





かおる
ええと〜。 しょっぱなから、「星読」って何ですか?

つづき
ただの思いつきじゃ。 「ほよみ」と読むがよい。
こよみ(暦)」をもじったシャレじゃよ。 「つくよみ(月読)」とも言うじゃろう。
かおる
月読み・星読み・暦」ですか。 ということは、このへんのネタは撤回して、
こよみ(暦)」=「かよみ(日読み)」という定説を受け入れるんですね?
つづき
おろかものめ! そのような俗説に惑わされてはいかん!
ヤマトコトバにおいて「」が「」の意味で使われた例などないわ!


古代において「」とは、の満ち欠けを数えることじゃ。
つまり、月齢を基準としたものであるはず。
読み(つくよみ)」とは言っても、
読み(かよみ)」という言葉が出来ようはずはない。

(「日読み(ひよみ)」という古語はある)


かおる
日読み(かよみ)」を俗説と切って捨てるのはいかがなものかと。
月齢を数えたにせよ、「三日月(みかづき)」というコトバがありますよ?
つづき
みかづき」じゃとな?

かおる
ええ、日本人は、古代より、月の満ち欠けの状態に名前をつけて呼んでいたのです。
三日月(みかづき)」は、「朔月(さくげつ)」、つまり新月から三日後の月の形のことです。

月を数える「みか」は「三日」のことですから、
かよみ=日読み=暦(こよみ)」でも、おかしくないでしょう?



つづき
新月から数えて三日月という言い方は、陰暦が日本に伝わってからの新しい呼び方であるぞ?
つまり、それほど古い和語では無いということじゃ。
かおる
う、それはそうかも知れませんが……。
でも、「みかづき」という言い方は、古代からあったのではないでしょうか?
つづき
みかづき」というコトバが古代からあったとしても、
三日目の月」という意味じゃったかどうかはわからぬぞ?
かおる
え? どういう意味ですか?

つづき
一般的に、太陽のそばで輝く天体を「みか(御輝)」と呼んでいたのではないかね?

かおる
また、なんの根拠もないダジャレですか〜?

つづき
かおる君は、次の言葉を耳にしたことは無いかね?


みかぼし




かおる
みかぼし」?
え〜と、聞いたことあるような無いような……。
つづき
みかぼし」とは、星神の名前じゃ。


その名も、「天津甕星(あまつみかほし)」!



かおる
あ〜! 天津甕星(あまつみかほし)といえば、
日本書記に現れる、天津神の葦原中国の平定に最後まで抵抗した悪神のことですね?
またの名を、天香香背男(あまのかかせを)とも。

つづき
そうじゃ! 甕星(みかぼし)とは、金星のことじゃと言われておる。
明けの明星(金星)は、「あかほし」と言われておったから、
おそらく、宵の明星(金星)を指して「みかぼし」と呼んでいたのじゃろう。
ここでいう「」とは、「かがやく(輝く)=遠くの光」という意味じゃろうな。

古代の日本人は、沈み行く夕日の近くで、太陽に負けぬがごとく、ひときわ光輝く星の姿を、
太陽神アマテラスにまつろわぬ悪神に例えておったのじゃろう。
そもそも、古代日本人は、星を忌まわしき存在と捉えていたようじゃ。

夕日は、「ゆふづくひ」とも呼ばれていたのじゃ。
そして夕焼けの空に現れる、月・金星は、「ゆふづくよ」「ゆふつづ」とも呼ばれておった。
これらの言葉の関連性は明白じゃろう?

かおる
で、月と金星が、どう関係するんですか?
みかづき」と、「みかぼし」の言葉が、偶然似てるってだけじゃないですか〜?
つづき
はたして、「みかぼし(金星)」と、「みかづき(三日月)」の「みか」は、偶然似ているだけで、
お互いに関係の無い言葉と言えるじゃろうか?

言葉では解り難いじゃろうから、図にしてみたぞよ。
古代人は、このような夕闇空を見ていたはずじゃ!







三日月(みかづき)と、甕星(みかぼし)は、
どちらも、夕方に現れ、太陽に付き添い続いて沈む天体である




〜る(動詞)
〜ふ(形容詞)
〜み(名詞)
月(よ)=つき
よる=月の支配する時間
よふ=よふけ・よひ(宵?)
よみ=黄泉?
「読み」は、月齢を数えることか?
星(つ)=ほし
つる=連る・集まる
つぶ=小さいもの
つみ=罪・摘む?
忌まわしいもの
日(ひ)
ひる=日の支配する時間
ひふ=日がふける?
ひみ=姫・秘め?
女神=アマテラス
ゆふづく
「つく」=着く
夕着く
落ち着く
近づく
ゆふづくよ(夕月夜)
月の古代語は、「
「つくよ」の真の意味は「着く月」
「つく月(よ)」が「月夜」に転じた
弓(ゆ)は、ゆふ(夕)の月の形が語源か?
ゆふつづ(夕星)
星の古代語は、「
「ゆふつく・つ」の転
ゆふづくひ(夕づく日)
日の古代語は「
「夕づく日」が略されて、
「夕日」になった
あさづく
あか

朝・赤・暁
明ける・明るい
輝く
上がる
あさづくよ(朝月夜)
「づく」は「月」ではない
「月」は、「よ」
あかほし(明星)
明けの明星
あさづくひ(朝づく日)
あかひる(明昼)
「朝づく日」が略されて、
「朝日」になった
みか
「御・輝」
みがく(磨く)
「甕」=容器
輝くもの
大切なもの
三笠山
甕の原
みかづき(三日月)
古代では「みかづくよ」か?
「三日月」は、
陰暦が伝わってからの当て字
みか≠三日
みかぼし(甕星)
宵の明星
みか≠三日


三日月の「みか」と、甕星の「みか」は、
共通の意味を持っていたはず。

別々の意味を持ちながら、偶然同じ音になったとは考え難い!



つまり


」=身・実を表す「み(御)」・付き従うこと
」=かがやく(輝く)・偉大であること

」=傍にあって、輝く存在






かおる
うひゃ〜。 三日月の「みか」は、甕星の「みか」と同じ意味だったというわけですか〜??

つづき
無論その通り! 他に解釈のしようはあるまいて。
みかぼし(金星)」に対して、「三日目の星」では意味が通らぬ。
みかづき」においても、「三日目の月」という意味はもともと無かったはずじゃ。
みか」には、「みがく(磨く)」という、輝かしい意味がちゃんとあるのじゃからな。

陰暦が伝わると、「みかづき」には「三日月」の漢字が当てられ、
主に、「三日目の月」を意味するかのごとく語彙が固定されてしまったのじゃ。

かおる
むむむ。 本当に、そんな気がしてきたような……。

つづき
後世になると、「」に、「」の意味が付随し、
日数を数える助数詞として「」が登場したのじゃ。

」とは、「離る(かる)・何処(どこか)」というように、離れた場所まで「一日」で歩ける距離の単位じゃ。
離れた処の光」という意味で、「かがやく(輝く・偉大)=みか(磨く)」という言葉が生まれたのであろう。

よって、「」は、あくまでも「こよみ」であって、
かよみ(日読み)」ではないということじゃよ。
日読み」は、「ひよみ」と読むものじゃ。



ついに解明!
古代の暦の誕生


古代人が見た
昼夜を支配する天体
天体の古代語
「月」の古代語は「よ」だった!

ひる(昼)

よる(夜)
古代の暦
ひよみ=日月み


「月み (よみ)」とは、月齢を数えること

日月の助数詞
暦の概念が生まれたことにより
日月の数え方が生まれた!

か=処の転
一日で歩ける距離
→「日」の数の単位
つき
「ゆふづくよ」からの転
夕づく=夜になる
→「月」を表す
天体の上代語
「月(よ)」は「夜(よる)」と区別され、
「つき」と呼ばれるようになった!
ひ(日)つき(月)
上代の暦
ひよみ=日読み


「月」が、「つき」と呼ばれるようになると、
「よ」から、「月」の意味が失われ、
「月み」の意味だった「よみ」が、「読み」の意味となった
「つくよみ(月読)・みかづき・みかぼし」は、新しく造語された言葉



「ひよみ」とは、「日読み」ではなく、
」と「」をみる(数える)意味だった!
「ひよみ」こそ、「暦」を表す真の言葉なのだ!







かおる
それにしても、月の古代語が、「」だったとは、また大胆な説ですね?
ゆふづくよ・ゆふづくひ」の関係を見ると、たしかにそんな気も……。
つづき
よ→ゆふづくよ→つくよ→つく→つき」と、変化したのじゃろう。
はじめの表を見れば一目瞭然じゃ。
かおる
じゃ、「こよみ」の語源は何でしょう?

つづき
あせらずとも、そのうち、謎は明かされるであろう。

かおる
そう言いながら、「星読(ほよみ)」とか、ありもしない造語を持ち出したりして、
余計にヤマトコトバを乱してるだけなんじゃあ?

このへんで、暦の歴史について整理して考えて見ましょう。




暦の歴史

前3000頃ストーンサークルなど、簡単な日時計が出現。
前2000頃バビロニアで太陰太陽暦が生まれる。
1年を360日、1月を30日、1月を四つに区切り7日(一週間)の単位が生まれる。
7日目を休日とする。
十二宮星座が生まれる。 後にギリシャ神話と関連付けられる。
前1500頃中国で太陰太陽暦が始まる。 十干十二支生まれる。
前770頃中国で陰陽五行説生まれる。
前600頃カルデアで天文学、占星術が発達する。
1日を24時間、1時間を60分の単位で表す。
太陽、月に加え、水星・金星・火星・木星・土星の、七つの星の運行が観察される。
七つの星に、神の名前がつけられる。
1時間ごとに一つの星が支配し、1週間に七つの星の名前がつけられる。
この頃、中国で二十八宿が生まれる。
日本の稲作が始まる。 農民向けの簡素な太陰暦が伝わったであろう。
239卑弥呼が、親魏倭王の金印を授かる。 銅鏡100枚を贈られる。
この頃、畿内を中心に三角縁神獣鏡が登場する。(中国では出土しない)
景初四年(240)という存在しない年号がある?
248卑弥呼死亡。 247年、248年に日食が起こる。
369(372)百済から七枝刀をもらう。 東晋・泰和4年の年号。
400頃百済から王仁を迎える。 論語・千字文・漢字の伝来。
513百済から五経博士を迎える。
陰陽五行思想の始まり。
533百済から暦博士を迎える。
暦法の伝来。
554百済から易博士を迎える。
604日本で、中国の元嘉暦(太陰太陽暦)を採用
660中大兄皇子(天智天皇)が漏刻・水時計を作る
663百済滅亡。 百済から大量の亡命者を迎える。
671天智天皇が水時計で時を告げる。
675天武天皇、占星台を設置。
676陰陽寮の記述。
天文博士・暦博士・漏刻博士・陰陽博士などで構成。
697日本で、中国の儀鳳暦(太陰太陽暦)を採用
700頃キトラ古墳造営。 星宿図が描かれる。
712古事記編纂
神武天皇の橿原即位の年を辛酉と記述。 発達した陰陽道による讖緯説の影響か?
十干十二支をもとに、六十年を一元、二十一元を一蔀として、
辛酉には革命が起こると予言される。
720日本書記編纂
天香香背男・天津甕星神(金星)の記述が見られる。
764日本で、中国の大衍暦(太陰太陽暦)を施行。 採用は763年。
800頃中国から、一週間に、星の名前を付ける方式が日本に伝来。
五行説の影響で、星には「火水木金土」の名がつき、「日月」を加えて曜日が生まれる。
中国で、一週間は「星期」と呼ばれるようになる。
858日本で、中国の五紀暦(太陰太陽暦)を併用。
863日本で、中国の宣明暦(太陰太陽暦)を採用。
894菅原道真、遣唐使を廃止する。
その後901年、菅原道真は大宰府へ左遷される。
これより中国の暦は採用されず、現行の宣明暦が823年間使われ続ける。
京では、陰陽道による占いや、北斗七星信仰が流行る。
1549フランシスコ・ザビエル来日。
ユリウス暦(太陽暦)を携えてきたかも。
1582ローマ教皇グレゴリウス13世が、グレゴリオ暦(太陽暦)を施行。
1613キリシタン禁令。
キリシタンより持ち込まれていたグレゴリオ暦(太陽暦)から、
幕府は、宣明暦(太陰太陽暦)との暦の誤差を知っていたかも。
1639鎖国。その後、清とオランダのみ交易。
1685日本で、貞享暦(太陰太陽暦)施行。 初の大和暦。
それまでの宣明暦(太陰太陽暦)は、823年使い続けたため、
天象と暦記載値に2日の誤差が生じていた。
1798日本で、寛政暦(太陰太陽暦)施行。
1844日本で、天保暦(太陰太陽暦)施行。
1873日本で、グレゴリオ暦(太陽暦)施行。
1888日本で、明石を基準に標準時施行。






つづき
かおる君、暦の歴史じゃというのに、ずいぶん百済の記述が目につくのお?

かおる
ええ、「暦」というのは当時の最新科学であって、渡来人から学ぶしかありませんでしたから。
日食・月食の正確な予報には必要不可欠なものなのです。
つづき
大和朝廷は、渡来人に教えを乞うてもらったわけじゃな。

かおる
渡来人の学者や技術者や貴族が多く来日したという、歴史的関係から、
天皇家も渡来人の末裔なのではないか?という説もかなり強くあるみたいです。
つづき
おろかものめ! そのような風説が流布されておるとは!

かおる
僕も実際はどうかわかりませんが、キトラ古墳なんかは、高句麗の影響が強いみたいですね?
キトラ古墳に描かれていた星宿図は、北緯38〜39度で、現在のピョンヤンあたりの星空だそうです。

被葬者は渡来系貴族と見て間違いないでしょうね。
大和朝廷内でも、渡来系の氏族が力を持っていたようですし。
天武天皇も、陰陽寮を作るなど、天文学に関心があったようですが、
当の天皇も、渡来系の王族の子孫と考えてもおかしくないと言う訳です。
はたして、日本は、渡来人によって征服されたということでしょうか?

つづき
嘆かわしい考えよのう。 渡来人が知識を持参して、
大和朝廷に取り入っていったのは事実としても、大和朝廷の中心人物は、渡来人ではないじゃろう。

無論、紀元前数百年遡れば、渡来系であったとしても不思議ではないが、
3〜4世紀の新しい時代の渡来人では無いということじゃ。

かおる
僕もそう思いたいですけど、また、どうして断言できるんですか?

つづき
優秀な渡来人なら必ず持ちうるべきであろう、大事な知識が大和朝廷には欠けておるからじゃ。

かおる
その知識とは?

つづき
占星術じゃ。

かおる
ほほぅ?

つづき
かなしきかな、これが事実なのじゃ。 日本では、古来より「」に対して関心が薄く、
」の進歩が遅れ、占星術、つまり「星読」が発展することは無かったのじゃ。





つづき
どうじゃ? 時の権力者の「」に対する無関心ぶりは?
占星術ともなれば、陰陽師だけに限られた、あやかしの術と見られていたことじゃろう。

一方、大陸では国家や指導者の命運は「」の動きによって左右されると考えられ、
占星術が盛んに行われ発達しておったのじゃ。
その占星術は、国家にとっては最高機密であり、自国民にも暦の概要は知らされることはなかったのじゃ。

日本を征服できるような力を携えた渡来系の王族貴族なら、占星術を知り、たしなんでいたはず。
日本に高度な占星術を持ち込み、発展させぬはずはない。
しかし、実際に陰陽寮を設置したのは、やっと7世紀になってからじゃ。
よって、古代の大和朝廷の中心人物は、渡来人ではありえないというわけじゃよ。

かおる
なるほど、たしかに、その後の歴史を見ても、武家が力をつけてからは、朝廷や陰陽師の力も衰退し、
鎌倉時代から江戸時代はじめまで、幕府は暦を更新することなく無頓着だったようですね?
つづき
もっとも、暦に関心が無かったのは幕府のほうであり、京の朝廷直属の陰陽師達は、
密かに暦を研究しておったやも知れぬがのぉ。

その「星読術」は、門外不出の秘儀として、
世に知られずにいたとしても不思議では無いじゃろう。


古来より陰陽師達は、朝廷に対抗した「天香香背男・天津甕星」を、
朝廷の運命をも左右する占星術の神として崇め、
密かに、日本独自の占星術「ほよみ(星読)」を完成させたのじゃ。
そうじゃ! その証拠が「こよみ」という言葉に秘められているに違いない!

ヤマトコトバにおいて、「は・か」が対応する語句なのは、このへんから実証済みじゃ。
ほ・こ」も、対応したとしても不思議では無い。

ほよみ(星読)」を特別な意味として「こよみ」というコトバ転訛させ、
」の漢字に当てたということじゃろう。
それは、倭名類聚鈔(和名抄)に、「暦=古与美」という訓読みが現れる以前、10世紀あたりのことであろうな。
ちょうど、陰陽師達が活躍していた頃じゃ。 星印の家紋も、占星術師の証じゃ。


かおる
ネタはともかくとして、「」の語源をちゃんと解いてくださいよ。

つづき
え?












付録・年表




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