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桓武天皇が狛犬を連れて来た


Feb.8.2004





かおる
ずいぶん、ストレートなタイトルですね。

つづき
結論から言えば、そういうことじゃな。

かおる
ええと、ということは、ここの説とセットで考えると、
出雲政権の神社”、”大和政権の神宮”、”桓武天皇の狛犬”と、そういう流れなわけですね?
でも、桓武天皇は平安時代はじめの天皇だし、狛犬は、飛鳥時代に、仏教と共に大陸から伝わったものでは?
古墳時代には居なかったとは思いますけど。 「狛犬の埴輪」なんて見たことありませんしね。

つづき
「狛犬」と呼ばれている獣の像は、飛鳥時代からのものじゃろうな。
ここで、狛犬について、整理しておく必要があるじゃろうて。 このへんも参考までに。




かおる
これを見ると、大和朝廷は、朝鮮からの渡来系勢力と阿吽の呼吸で手を組みつつ、国を治めていたことが、
神社の狛犬の姿からも、伺えるような。
つづき
結論を急がずともよかろう。 しかし、桓武天皇が連れて来た狛犬とは、いったい何なのか?
なぜ、角を生やしていたのか、それが謎じゃ。
かおる
そうですね? 仏教の「阿吽」の影響なら、口を閉じるだけで意味を表現できるし、
わざわざ、角を生やす必要は無いでしょう。
つづき
実は、伽耶(大加羅国)の王子「ツヌガアラシト」なる人物が、
垂仁天皇2年(B.C.27?)に渡来しておるのじゃが、彼は、角を生やしてたというのじゃな。
それで、渡来した越の国に角鹿(敦賀)という地名を残したといういわれが残っておる。
角とは、朝鮮系勢力を意味するものじゃったのかの?

かおる
角がある、という表現が何を意味してるかはともかく、
そこから狛犬の角と、結びつくのかどうかですね?
つづき
角のある者と言えば、古来より鬼を意味するわけじゃが、
どちらかと言えば忌まわしい部類のものじゃろう。
狛犬が、渡来系勢力を取り込む意味があったとして、
渡来系勢力は、角があるというデザインに納得したのじゃろうか?

かおる
どちらかと言えば、配下に収めたという感じはしますね。
国内の、渡来系氏族を、朝廷が従えているという象徴ではないでしょうか?
つづき
渡来系氏族との軋轢は、飛鳥時代にはケリがついたのではなかったか?
奈良時代には何事もなく、狛犬も生まれず、平安時代になって狛犬が生まれたのはなぜか?

かおる
奈良時代の716年には、武蔵国に渡来人を1799名集めて高麗郡が置かれ、
668年に滅ぼされた高句麗の王族、若光が、王に任命され、高麗王(こまのこきし)若光を名乗っています。
朝廷と渡来人との関係は良好だったようですね。
狛犬が登場するのは、その後、100年以上後のようですね。

つづき
さて、何も問題が無ければ、わざわざ渡来人を意識して、
「狛犬」をデザインして神社に設置する必要もないような気がするがのお?
かおる
魔物には、邪気を追い払うという意味もありますね。
渡来人に対して、朝廷の守り神として、働いてほしいという意味があったのかも?
つづき
すると、平安時代に、朝廷が恐れた邪気と言う物があったのじゃろうか?

かおる
平安時代初頭の頃、蝦夷には、悪路王というまつろわぬ民の首領がいて、朝廷に対抗していました。
武蔵国に渡来人を集めたのは、都からの東方の防衛のためだったかも知れません。
奈良時代後期には、新羅と国交が悪化し、779年からは断絶していますね。
663年に、白村江で負けてから100年くらいですから、また、外国からの侵略を恐れたのかも?
まだ、国内外の情勢は安定していたとは、言えなかったようですね。
平安時代、894年に、菅原道真の建議で遣唐使を廃止した頃、
実際に新羅の軍船が攻めてきて、大宰府が返り討ちにしました。
唐は907年に滅亡しましたが、菅原道真は901年に大宰府に左遷されています。 つまり西の最前線基地ですね。

つづき
すると、菅原道真の祟りを恐れて狛犬を……。

かおる
それはない。(キッパリ)

つづき
狛犬の角は、……あれ、避雷針じゃないかの?

かおる
違うって、言ってるでしょ!

つづき
雷が、電気だと証明されたのは、フランクリンが凧で実験した1752年のことじゃが、
平安時代の、京の都の陰陽師たちは、雷を、菅原道真の怨霊によるものと信じ、
角をもった狛犬によって封印する術を編み出したというわけじゃな?

かおる
今日は、ここまで!










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