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超古代で「あそぶ」とは?


October.5.2004





かおる
で〜。 前回でネタに出した邪馬台国の所在地論争ですが、
結局のところ、師匠はどうお考えなんですか?
つづき
妄想を排除し、魏志倭人伝に従えば、邪馬台国は九州にあったのじゃろう。
大和朝廷と邪馬台国の関係は、まだわしにも解決つかぬことじゃ。
かおる
いわゆる邪馬台国論争については、一歩引き気味のスタンスということですか?
師匠らしくもない! もっと爆裂した妄想を期待してたのに〜。
つづき
そもそも、妄想を嫌ったのは、かおる君ではないか?

かおる
いや、僕はですね、もっと「一般ウケするような、わかりやすい妄想」をすべきだと思うんですよ。
こう、なんというか、こじつけたり、ヒネりすぎたりせずに。
つづき
そんな姿勢では、真理にはたどりつけぬ!
ウケ狙いの安っぽい妄想ならば、三文古代歴史小説家にまかせておけばよい!
かおる
どっちが安っぽいんだか……。
それで、具体的には、邪馬台国は九州のどのあたりか特定できてるのですか?
つづき
そのように、結論を急ぐのも、研究者の悪いクセなのじゃ。
先に結論ありきではなく、地道に研究を積み重ねることで、古代の真実の姿が見えてくるはずじゃ。

結論を急げば、結論にそぐわぬ情報から目をそむけるようになり、
こじつけや仮定が多くなり、視野は狭くなるばかりじゃ。
恣意的な憶測は避け、短絡的な考えをしてはならん。


かおる
それはそうですね。 では、まあ、この件は、置いておくとして……。
今回のテーマは、また語源ネタですか?
つづき
うむ。 かおる君は、「あそぶ(遊ぶ)」とは、どういう意味の言葉じゃと思っておるかね?
他と対応する語句があるとすれば、何じゃろうか?
かおる
そうですね〜。 「あそぶ」は、自由気ままに楽しむ、ということかなぁ?
あそぶ」の対は、やっぱり「はたらく」なんじゃないでしょうか?
つづき
ふむ。 そう思うのも無理はないじゃろう。 しかし、「あそぶ(遊ぶ)」と対応する語句が、
実は、「ひそむ(密か)」「かぞえる(数える)」じゃったと聞いたら、どう思うかね?
かおる
また、師匠の妄想が始まったな、と、思います。
密か」「数える」では、「遊ぶ」と何の関係もないじゃないですか?!
つづき
おっほん。 それでは、説明せねばなるまいな。 下の表を見よ!





あそぶ(遊ぶ)」の語源とは何か?
「密か」「数える」と対応した言葉だった!


あ(有)か(処)ひ(日)≒「い」?備考
あかり

灯り・明るい・あかつき・赤

辺りを照らす
かがり

かがり火・輝く

遠くを照らす
ひかり≒いかり(錨・怒り)?

光=きらきら輝いている
錨=ごつごつしている
怒り=ごつごつした気持ち
放たれている様子

「かり」=離り
あさ

朝(時間の始まり)
あさる(漁る)=漁の時間
かさ

かさむ・かさばる(量)
かざす・飾る(偉大に見せる)
ひさ≒いさ(誘う)?

ひさし=久し・長い時が過ぎる
ひざし=日差し?
いさ=大したこと?
いささか=大したことではない
いさはや=諫早?
量を示す言葉
(距離・時間)

「さ」=進行
「さる」=過ぎる
あし

葦(昔は沢山有り一般名詞)
あしはらのなかつくに
かし

かしこ(遠称指示代名詞)
かしこまる(畏れる・尊敬)
ひし≒いし(石)?

州(ひし)≒岸(きし)≒いき(壱岐)?
日が沈む場所・方角か?
場所を示す言葉

「し」=示す・場所?
「しる」=知る
あす

明日(今日ではないこと)
次に現れる日

あすか(飛鳥)?
かす

かす(糟=取るに足らないもの)
かず(数=たくさん有ること)
かすか・ほのか

かすが(春日)?
ひす≒いす?

ひすかし(心がねじれている)
いすかし(心がねじれている)
ひすい(翡翠=貴重なもの)

ひすか?
物を示す言葉

「す」=する
あせ


体から流れてくるもの
かせ


処より流れてくるもの
ひせ≒いせ?

ひせ?≒いせ(伊勢)?
太陽から流れるもの=日光?
状態を示す言葉

「せく」=急ぐ
あそ

遊ぶ・あそこ

り+そ(代名詞)
=確固として存在すること
あそばす=神の御技

計り知れない偉大なこと
雄大・自然・自由気まま
かそ

かそけし・かすか・数える

か(遠く)+そ(代名詞)
かそ(偉大?)=かそ(父)

遠くにあってよく見えない
数える=数が知れないこと
ひそ≒いそ(磯)?

ひそむ(潜む)・ひそか(密か)

ひ(日)そ(代名詞)
ひそやか=朝の静けさ
日の出前か、海に沈んだ後

姿(太陽)の現れていない様子
姿を示す言葉

「そ」=確固たるもの

「そる」=反る
他人の思い通りに
ならないこと

「そう」=沿う
相手に従うこと



「ひそ」=現れる前の姿=「ひそむ」
「かそ」=彼方にあって霞む姿=「かそけし」
「あそ」=雄大で自然な姿=「あそぶ」





かおる
なんだか、怪しい表を持ち出して、えらく回りくどいですけど、ようするに、
子供らしい自然のままの様子=「遊ぶ」ということなんですね?
つづき
単純に言えば、そういうことじゃな。

かおる
まあ、悪くはないでしょうね。
では、今日はこのへんで……。
つづき
まだ、話はこれからじゃぞ?

かおる
へ? というと?

つづき
表を見て気づかぬか? これらの言葉は、古代において、とても基本的な言葉じゃったはずじゃ。
日(ひ)」に関係した言葉は、「」に転じて、海に関係した言葉を作っておるようではないか。

州(ひし)、岸(きし)、石(いし)、伊勢(いせ)、磯(いそ)などじゃ。
これは、古代人が、日が昇り沈み行く海岸に住んでいたことを言い表しておることであろう。
壱岐島」も、魏志倭人伝の頃は「壱支(いし)」と呼ばれていたのではなかろうか?

九州に諫早(いさはや)という地名が残されておることもポイントじゃ。
イザナキ・イザナミ」とも通じる言葉と考えれば、
神が最初に降り立ったと言われる「オノコロ島」は、そのあたりの海に浮かぶ島ではなかったか?


かおる
う〜ん。 どうなんでしょうかねえ? なんとも言えませんけどね〜。

つづき
これら基礎語句から、「あすか」「かすが」と言った、
地名が生まれていったのじゃろう。
かおる
でも、それは、畿内の土地の言葉ですよね?
あまり、海岸とは関係なさそうな?
つづき
あすか」「かすが」とは、その土地に特別の思いを込め、造語された呼び名じゃろう。


逆に、身の回りに普通に「」が生い茂っていたような場所なら、
その土地は、「あし」などという単純な名前で呼ばれたことじゃろう。


とよあしはらみずほのくに」とは、
言うまでもなく、古代ヤマトコトバを生み出した、
弥生人のふるさとの地なのじゃ。



葦原中国(あしはらのなかつくに)や、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)は、
どこかに、実在していた土地であったに違いない。
高天原(たかまがはら)も、ほど近い小高い土地にあったと考えられよう。



つづき
弥生人の原風景であるその場所は、今も、「あし」の名を冠して残っておるのではないかな?

かおる
でも、「あし」のつく地名は、全国にいくらでもあるんじゃないですか?

つづき
それが、調べてみると意外に少ないのじゃな。
かろうじて郡名に残されておるのが、九州熊本県葦北郡なのじゃ。
かおる
へぇ。 すると、やっぱり九州が、弥生文化の発祥の地、ということでしょうかね?

つづき
ヤマトコトバが作られ、話された、最初の土地でもあろう。

かおる
ロマンですね〜。 でも、最初に稲作が伝わったのが九州なのは当然としても、
日本語が形成された土地が九州だとは決められないんじゃないですか?
つづき
いや、おそらく、古代ヤマトコトバも、九州の地で、初めて話されていたはずじゃ。

かおる
それはなぜですか?

つづき
さきほどの表で示した、もっとも基本的な語句が、
もっとも目立つ地形につけられておるからじゃ。 間違いなく、古代人の暮らした土地であろう。


あそ=「あそ(阿蘇)」=あそこ



かおる
ほほぅ。

つづき
古代において、遠くからも目立つ、目印になるのがじゃ。
そのに、基本的な語句である、「あそ」を名付けられたまま、現代にまで至っておる。

あそ」とは、一般に多用される「あそこ」という指示代名詞のそのまた基語でもあるように、
ありのまま、そのまま存在する姿」という、単純な語彙の言葉なのじゃ。
つまり、ヤマトコトバの語彙が複雑に分化する以前の段階でつけられた言葉に違いない。

すなわち、「あそ」という山のある、その土地の周辺こそが、
古代ヤマトコトバの発祥の地と考えられるわけなのである。


かおる
う〜む。 「あそ」ですか。 言われていれば、古い部類の名前でしょうね。

つづき
ほれ、かおる君もいま、「あ、そうですか。」などと、口走ったじゃろう。
これは、語呂合わせではない。 「あ、そ」が、あまりに普通な古代語であるがためじゃ。
かおる
いや、そんな話はどうでもいいでしょう。

つづき
邪馬台国と大和朝廷との関係は検証が必要としても、大和朝廷が弥生人の血を引く民族とすれば、
九州の地とも深い関わりを持っていたことは事実であるのじゃ。
かおる
畿内の大和朝廷が、九州と関係があったとしても、ずっと古代の話でしょう?
弥生人の子孫だからといって、邪馬台国が九州にあった証拠にはならないですし。
つづき
無論じゃな。

かおる
それに、やっぱり、大和朝廷の前身は邪馬台国で、邪馬台国も畿内にあったと思いますよ?
中国の隋書とかでは、邪馬台国と大和朝廷は連続した政権のように書かれてますから。

大和朝廷にとっては、九州とは、
単なる征服地であって、配下に従えていただけのことでしょう?


つづき
そうとも言い切れぬぞよ。


7世紀の飛鳥時代であってもなお、
大和朝廷の王族と、九州とは強い因縁があったのじゃ。


かおる
それはまた、どうしてですか?

つづき
邪馬台国と大和政権を同一と記した隋書には、
ほかにも「阿蘇山」についての言及が見てとれるのじゃ。




7世紀の隋書に見られる、
阿蘇山」の言及



隋書・倭国伝

有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭


阿蘇山有り。その石、故無くして火起こり、
天に接する者、俗を以って異と為し、因って祷祭を行う。


(阿蘇山の噴火活動と、祭祀の記録)






つづき
よもや、単なる観光スポットではあるまい? 「阿蘇山」は、祷祭を行う場として登場しておるのじゃ。
畿内の三輪や伊勢といった地名については、何も書かれておらぬのに。

なぜ隋書は、九州・阿蘇山をわざわざ取り上げて記述したのか?
大和朝廷の祭祀が、阿蘇で行われていた、ということではないのか?


かおる
隋書は、聖徳太子の親書「日出る処の天子、日没する処の天子に致す〜」という記述が有名ですが、
同時に、阿蘇山の記述があるというのは、確かに奇妙な感じがしますね。
つづき
阿蘇山は、大和民族と大和朝廷にとって、特筆しておくべき重要な斎場であったということじゃ。
まさしく、「神のあそばす山」だったのでは、ないじゃろうか?

畿内に大和朝廷が興ったのは、それほど遠い古代ではあるまい。
古代より畿内に根ざすものであるなら、富士山を霊場にしたほうがありがたみが大きいはずではないか?

すでに関東まで東征していたはずの大和朝廷が、富士山を知らぬはずはない。
それなのに隋書では、富士山ではなく、九州の阿蘇山を斎場として記述しているのじゃ。
しかも、熊襲という敵地のド真ん中である。
6世紀頃までの大和朝廷は、弥生民族の記憶として、阿蘇山を信奉していたのであろう。

阿蘇山は、弥生人の霊山・聖地だったに違いない。


かおる
でも、隋書の記述だけで、阿蘇山を特別視するのはどうでしょう?
たまたま、そういうお祭りを見聞きしただけかも知れませんし……。
つづき
いや、まだまだ、大和朝廷と阿蘇山との因縁を感じさせる事実はあるぞよ。


畿内・吉備に残された5世紀中期頃の古墳の石棺には、
阿蘇山の凝灰岩を使われたものがあるのじゃ。


かおる
え〜? 古墳の石棺に、阿蘇山の凝灰岩が使われていたんですか!?

つづき
石棺の原材料を、わざわざ九州から運ばせたということは、
畿内の権力者は阿蘇の石を、神聖で霊的なものとして捉えていたという証であろう。


王の魂を、故郷の阿蘇の地に、眠らせたかったのじゃ!

九州こそが、畿内の大和朝廷を含めた、
弥生人すべての原風景だったことは間違いない!


阿蘇山」の凝灰岩は、
古墳の石棺に使われていた



阿蘇石が石棺に使われた古墳例

造山古墳 (岡山県市新庄町) (全国第4位の大規模古墳)
築山古墳 (岡山県長船町西須恵町)
小山古墳 (岡山県赤磐郡山陽町)
八幡茶臼山古墳 (京都府八幡市)
植山古墳 (奈良県橿原市) 推古天皇陵?(554〜628)
長持山古墳 (大阪府藤井寺市)
唐櫃山古墳 (大阪府藤井寺市)
大谷古墳 (和歌山県和歌山市)




かおる
石棺が、阿蘇山の凝灰岩製だからといっても、当時では珍しい価値のあるものだったかも知れないですし、
畿内の王族が、阿蘇山を信奉していたとまでは言えないと思いますが?
つづき
埋葬様式は、そう簡単に時流に流されるものではあるまい。
阿蘇山の凝灰岩で石棺を作ったのは、宗教的な意味合いからと見るべきじゃろう。

阿蘇山の凝灰岩で石棺を作るのは、九州の古墳に多く見られる様式じゃ。
古墳を作る習慣も、九州からの興りじゃ。
したがって、畿内の大和朝廷の王族も、わざわざ阿蘇山の凝灰岩で石棺を作っていたのであれば、
古代九州で、阿蘇山を信奉していた民族の末裔じゃと言えるのではないか?

王族が九州出身であったか、あるいは、
古代より、九州から畿内を目指して移動した民族の記憶が、
故郷の阿蘇山を懐かしみ、
古墳の石棺に、阿蘇石を使う慣わしが生まれたのじゃろう。
記紀神話の「東遷」も、望郷の投影かもしれぬ。

神話では、高天原より、天津神、天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)が、高千穂に降り立ち、
紀元前660年、「神武天皇」が東遷を始めたとされる。
神武天皇は、日向、豊国、筑紫、吉備、を戦い抜きながら畿内を目指したのじゃ。
どこまでが、事実を表していたかはともかく、そのような伝承は大和民族に広く伝わっていたのじゃろうな。


北九州夜須の地名と、畿内大和の地名は、共通点が多い。
やまと」と呼ばれていたのは、もともと九州であり、
東へ、たどりついた地に、故郷と同じ「やまと(大和)」の名前をつけて呼んだのではないか?
古代弥生人が、先に土地に名前をつけたのは、北九州と考えるほうが自然じゃろう。

九州からの民族の流入により、畿内で発展していた銅鐸文化は滅ぼされてしもうたに違いない。
畿内の新興勢力である大和民族は、銅鐸に興味が無く、神社に祀ることもなく、
記憶からすっぽり忘れられてしもうたのじゃ。




高千穂から、阿蘇を越えた反対側の西側に、
邪馬台国と対峙した「狗奴国・狗古智卑狗」とよく似た名前の「熊本県・菊池郡」がある。



つづき
九州から畿内への民族の移動があったのは確かじゃろう。
だからといって、

九州の邪馬台国が東遷して畿内の大和朝廷になったと、
短絡的には言えぬじゃろう。

かおる
ほとんど言ってるじゃないですか!

つづき
わしが言っておるのではない。 客観的事実を整理しておるだけじゃ。

かおる
恣意的な事実ばっかり挙げてるだけでしょ〜?
東遷があったとしても、邪馬台国が興る以前とも考えられますよ。
つづき
そのように、いちいち邪馬台国論争に結びつけることこそ、
視野を狭くする要因ではないか?

邪馬台国畿内説では、隋書の「阿蘇山」、石棺の「阿蘇石」については完全に無視しているようじゃが。
広い視野から、古代を探ろうという気持ちが欠けておるように思える。

視野を広く持てば、弥生人の心の古里までも突き止めることができるのじゃ。
邪馬台国論争よりも有意義ではないか?


つづき
ちなみに、天孫神を案内した「サルタヒコ」のサルとは、「」ではないじゃろう。
本来は、「去る」で、猿の様な容貌は、後付のイメージじゃろうな。
かおる
サルタヒコ」=「地を去る」だとすると、なんだか捨て去る様なイメージが強くなりますね。

つづき
去る」は、古語では「行く」という意味でもあったようじゃ。
故郷を去り、新天地を目指す案内役という意味なのじゃろう。
かおる
う〜む。 まさか「遊ぶ」から「」「阿蘇」「古墳の石棺」にまでネタが及ぶとは思いませんでした。

つづき
どうじゃね? 今回は、比較的、一般ウケしそうな説にまとめてみたのじゃが?

かおる
やっぱり、ウケを気にしてたんですか? とりあえず、騎馬民族説とか天皇家が渡来系だとか、
そういうトンデモな方向では無さそうなので、僕としては安心しました。
つづき
最後に、阿蘇神社についても、紹介しておこうぞよ。




古代阿蘇国造、阿蘇神社


阿蘇神社
(熊本県阿蘇郡一の宮町)

孝霊天皇(第7代)創建とされる。

阿蘇大明神、健磐龍命(タケイワタツノミコト)を主神とし、
御妃神、阿蘇都媛命(アソツヒメノミコト)、
阿蘇初代国造、国造速瓶玉命(クニノミヤツコハヤミカタマノミコト)
及び近親十神を含めて十二神を祀る。


御祭神の、健磐龍命(タケイワタツノミコト)は、
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)の皇子で、
神武天皇の皇孫子である。
健磐龍命は、神武天皇の勅命で阿蘇を開拓した。

伝説では、昔、阿蘇には巨大な湖があり、
健磐龍命が外輪山を蹴破り排水したのだという。
古代に存在したとされる阿蘇カルデラ湖は、
現在、白川、黒川、となってなごりを留めている。


阿蘇神社を祀ったとされる孝霊天皇は、
倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の父である。
百襲姫は、大物主神(オホモノヌシノカミ)の妻となった。

大物主神は、奈良県三輪山大神神社に祀られている。
百襲姫の墳墓は、三輪山麓西側にある箸墓古墳である。




阿蘇神社が、重要な意味を持たないものなら、
孝霊天皇とは、娘を土着の大物主神に嫁がせるなど、
何も考えて無いボンクラ天皇に見える。

阿蘇神社が、重要な意味を持つならば、
孝霊天皇とは政治的知略に長けた人物となる。


阿蘇神社は、出雲・伊勢に並ぶ古い由緒があり、
国造でも、出雲・紀伊に並ぶ存在であるが、なぜか注目されない。
孝霊天皇も、欠史八代天皇の一人である。







つづき
記紀神話が架空だとしても、阿蘇が、大和朝廷にとって縁の深い重要な土地であったからこそ、
阿蘇を開拓したとされる健磐龍命を、神武天皇に近い系譜に設定せざるをえなかったということじゃ。

天津神が、降臨した地に高千穂を選んだのは、気まぐれではなく、
古代弥生人達の「阿蘇信仰」にあやかってのことに間違いない。


阿蘇信仰」とは、火の山を祀ることじゃ。
古代弥生人達の土地の中心に構える、世界最大級のカルデラ型活火山「阿蘇」が、
信仰の対象にならぬはずはない。
阿蘇には、石器時代の遺跡もあり、古代はカルデラ湖があったとされるが、
当時の記憶が神話となって今日まで伝えられるというほど古い土地なのじゃ。
健磐龍命は、最初は、阿蘇火口に立つ巨石だったとも伝えられる。


火の神=カグツチ」は「嗅ぐ土」つまり硫黄の匂いのする火山=阿蘇を表しておる。
古代において、「カグツチ」を祀っていた巫女は、「火巫女」と呼ばれたに違いない。
その一族は、阿蘇のカルデラの周囲を開拓し、「やまひと」と呼ばれたことじゃろう
縄文時代のことじゃった。


後に、稲作が伝わると、水田を確保するために、
やまひと」は、阿蘇のカルデラを去り、平野に住むようになったのじゃ。
移り住んだ土地は、阿蘇の西側、今で言う熊本平野に他ならない。
そこが、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)じゃ。


時がたち、人口が増えるとともに、クニ同士の争いが起こるようになった。
争いによって熊本平野から追われた集団は、
阿蘇から見て熊本平野から逆方向の高千穂・日向へと出て、北上し、
北方筑紫平野に移住したことじゃろう。
そこが、葦原中国(あしはらのなかつくに)じゃ。


熊本平野の人々と、筑紫平野の人々は、遺恨を残し、歴史的に対立を深めることになったじゃろう。
どちらが、阿蘇の神の血を引く、本家の「やまひと」なのかと。

火の山を離れ、北九州に移住した「やまひと」は、「」に代って「」を、
信仰の対象にするようになったことじゃろう。
ヤマトコトバにおいて、「火=日=ひ」は、同じコトバなのじゃから、
火を祀ることと、太陽を祀ることは等しかったであろう。
太陽信仰=アマテラス」の誕生じゃ。
その頃、外国の使者より手に入れたも、民衆を惑わすのに丁度よかったに違いない。

このように、熊本平野を追われ、筑紫平野に定住した「やまひと」じゃったが、
火の山を祀る習慣も、忘れられていなかったじゃろう。
その首都を遠く離れた阿蘇山に置き、「火巫女」が祈祷を続けておったのじゃ。

筑紫平野から、阿蘇へ行くには、南へ山道を行けば一月、あるいは、
海へ出て日向へ行き、高千穂を経由して北上すれば十日ほどかかったじゃろう。

外国の使者は、「やまひと」の発音を「やまhいt=やまイッ」などと聞き、
邪馬壹」と漢字を当てたかも知れぬ。



つづき
だからといって、

北九州の筑紫平野に邪馬台国があり、
南の熊本平野に狗奴国があったと、
短絡的には言えぬじゃろう。

かおる
言ってるじゃないですか!

つづき
ともかく! 神々のふるさと、高天原がどこにあったかと言えば、
もう議論の余地は無いじゃろう。


高天原(たかまがはら)=阿蘇カルデラ耕作地帯
=神々のあそばす火の山

わしらはまた一つ、謎に包まれた古代史のベールを解いたのじゃ。



かおる
超古代をネタに遊んでるのは師匠の方なんじゃ……。












付録・年表




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