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神代文字の謎
Jan.29.2004
つづき
さて、日本人が文字を手にいれたのは、いつの頃じゃろうか?
かおる
記録では、4世紀末、百済の王仁博士が渡来し、「論語」「千字文」を伝えたとありますね。
文字というか、漢字がその頃伝わったというのが定説ですね。
千字文は、論語を読んで儒教を学ぶための辞書みたいなものですかねえ?
もっとも、ずっと前から、漢字を読み書きできる倭人が大勢いたとは思います。
西暦57年に、後漢・光武帝は、倭王に金印を授けてるわけですから。
それから300年たっても、政府首脳が漢字を読み書きできないはずはないでしょう。
ただ、普通の国民は、文字教育は受けてなかったでしょうね。
つづき
漢字ではなく、日本独自の文字文化というものは無かったのじゃろうか?
かおる
いわゆる、神代文字といわれるものは、後世の創作みたいですね。
五十音表にぴったり収まるような神代文字は、平安時代以降でしょう。
ここに書いてあるように、五十音表というのは、7世紀に、仏教と共に伝わった悉曇学によるものです。
それ以前は、日本語の発音は、"ア、イ、ウ、エ、オ"と、"イ、エ、オ"3音が甲乙2類あり、
合計8母音だったと言われています。
"キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、(モ)、ヨ、ロ、ギ、ビ、ゲ、ベ、ゴ、ゾ、ド"には、
2種類の発音のしかたがあり、上代特殊仮名遣と言われています。
"上"、"神"のカミの"ミ"の発音も違っていたらしいですね。
もっとも、P音が渡来人の訛りではなかったか? と、同じく、
8母音も渡来人の訛りだった可能性も否定できないかも知れません。
なんにせよ、五十音表が仏教と共に広められたことで、
日本語の発音体系が5母音にきちんと整えたことは間違いないでしょう。
というわけで、五十音表にそった神代文字というのは、考えられないわけです。
つづき
実は「随書倭国伝」に、面白いことが書かれておる。
「倭人に文字は無く、木を刻み縄を結ぶだけ」。 ”木を刻み縄を結ぶ”とは何のことじゃろうの?
かおる
ん〜と、”文字を持たずに、大工仕事に精を出したり、縄を編んだりしてる、働き者の人”
という意味じゃないですか?
つづき
いやいや、それは違う。 たとえばこれを見よ。
かおる
ハルキゲニア?
つづき
違う! これは、「縄文字」というものじゃ!
かおる
縄文字?
つづき
縄に結ぶ目をつけて、数を記録したりするものじゃ。
沖縄では、「藁算」といい、戦前まで使われていたそうじゃ。
かおる
これが、つまり、古代の文字というわけですか?
つづき
文字が、”言葉を介さず他人と意思疎通をはかる記号”とするなら、縄文字も立派な文字であるぞ。
”木を刻む”というのも、文字らしき記号を彫ったとも考えられるであろう。
かおる
そういえば、古代には「縄文尺」という4.2メートル単位の計り方もありましたね。
決められた縄の長さというものもあったのかも。
つづき
じゃが、これも実は日本独自の文字というわけでは無さそうなんじゃな。
かおる
と、いうと?
つづき
世界を見渡すと、縄文字を使う文化が結構ありそうなんじゃ。
たとえば、インカ帝国に「キープ」というものがあるな。
かおる
地球の裏側に、似たような習慣があるなんて、偶然って面白いなあ。
つづき
いや、それがどうも、偶然ではないらしい。
縄文字文化が南米まで伝播した可能性があるようなのじゃ。
南米エクアドルでは、日本の縄文式土器に似た文様の土器が出土しておる。
南太平洋のバヌアツでも、青森原産の5000年前の縄文式土器が発見されたのじゃ。
さらに、南米インディオののDNAを調べると、日本人が持っている特定ウイルスに感染していることもわかった。
もっと詳しいことはネットで検索してみるとよいな。
かおる
ウイルス感染なんて迷惑な話ですね〜。
でも、それはつまり、日本から南米へ人の往来があったというわけか。
つづき
往来というほどかどうかは、わからんが、一方通行にせよ、
その昔、人づてにウイルスが南米まで感染していったのは確かじゃな。
かおる
誰が海を渡っていったんですかね〜?
つづき
そこで、登場するのがラピタ人じゃな。
ラピタ人は、3600年前に突如登場した海洋民族じゃ。
ニューギニア、トンガ、サモア付近から、
高度な航海術で、太平洋の島々を行き来していたと言われている。
縄文字と、歌に合わせて航海術を暗唱し、島を渡り、船を進めていたのであろう。
ポリネシア人の直接の祖先らしいのじゃな。
鉄器をしらぬことと、縄目のついた土器が出土していることから、
ラピタ人の起源は、日本の縄文文化圏とつながっていたのではないかと言われているのじゃ。
縄文式土器が、バヌアツやエクアドルまで広がったのも、ラピタ人の遠洋貿易がもたらしたものじゃろう。
ラピタ人の骨も、縄文人のものとよく似ているらしい。
かおる
言語的にも、日本語と、南太平洋のオーストロネシア語族とは、発音や語彙が似てると言われてますね。
文法的には北方のウラル・アルタイ語族みたいですが。
ラピタ人は、縄文人から別れた民族かもしれませんね。
つづき
いやいや、南アジア一帯には、もともと似た土器文化があったということを考えると、
南方系縄文人と、ラピタ人が、祖先を共有していると考えるほうが自然じゃな。
かおる
南アジアと、縄文文化と、土器文化が似てたりするんですか?
つづき
日本の煮炊き用土器の形状をみると、丸底と平底にわかれるのじゃな。
平底は、日本、アジア一帯に多く、古くからの北方系民族文化圏であろう。
丸底は九州〜東南アジアに局所的に分布しており、新しい南方系民族文化圏であろう。
前者は狩猟採集民族で、後者は稲作・畑作民族だったと思われるな。
北方系民族が定住した後、6000年前に、中国南部から琉球、九州に民族が移動した証であろうと思われる。
かおる
ずいぶん古い時代ですね〜。
ずっと古代から、日本には北方系、南方系の民族が入り乱れていたわけか。
つづき
縄文字も、南方系民族が伝えた可能性がある。
実は、チベット自治区南東部にローバ族という、少数民族がおるのじゃが、
彼らもまた、縄文字を使用しておったということじゃ。
やはり最近まで、木を刻み、縄を結ぶ方法で記録をとっていたらしい。
おそらく、古代から、同じ文化圏を共有していたのであろう。
現代でも、「数珠」というものがあるが、あれは、珠を使って、
お経を唱えた回数を数えるためのものじゃ。
仏教以前の、アジア一帯の縄の結び目を使った数え方のなごりであろう。
かおる
数珠って、ただの仏具かと思ってたけど、実用的な道具だったんですね。
つづき
そう、たとえ宗教的な道具として様式化されておっても、もともとは実用品じゃったはずじゃ。
日常使っていた、必要な道具が、大切にされるうちに、仏具や祭器になっていったのであろう。
信仰と同時に、宗教的な道具をわざわざ発明するということは無かったはずじゃ。
かおる
日本の稲作は、3000年前に、青森にまで伝わっていたことがわかっていましたが。
丸底土器文化と一緒に、もっと古くから稲作が伝わっていた可能性もありますね?
つづき
うむ。 人が移動しておれば、大陸で稲作が始まった時期と遅くない頃に、
日本に稲作が伝わっていてもおかしくはない。
いずれ、もっと古い水田跡が発見されるであろう。 ただ、平地は開発が進みすぎておるのが辛いな。
木を刻んだ文字というのも、どんなものか気になるところじゃが、腐ってしまえば、それで終わり。
発見が難しいのが残念じゃ。
かおる
メソポタミア文明みたいに、粘土板で記録を残してくれたら、
現代まで残ったかもしれないのに。
あっちの方じゃ、粘土で、文書を残したり、契約書を封印したりしてましたよね。
日本は、象形文字も生まれなかったみたいだし、やっぱり神代文字もなかったんだろうな。
もし、文字があれば、何かに刻んで残したくなるのが人間の衝動ですよ。
サンゴやモアイに名前を刻んだ人がいたみたいに。
つづき
いや、いや、日本にも記録をしたためた粘土板があるやもしれぬぞ?
かおる
そんな話、聞いたことないですよ〜?
いったいどこに粘土板があるんですか〜?
つづき
板状土偶じゃ。
かおる
はぁ? 土人形のことですか?
つづき
土偶は、「ハニ」というが、「話す」と、言葉が似ておると思わぬか?
かおる
ほほぉ?
つづき
つまり、土偶はそれ自体で、なんらかの情報を持ち、人の手に渡り、人が目にすることで、
情報交換を行うという、「文字」だったのではないじゃろうか?
「今日は、狩がある」「留守にする」「皆で会議がある」というときに、
家の前に、伝言板のように掲げていたかも知れぬ。
人が直接「話す」かわりに、土偶が相手に意思を伝える、それが「ハニ」ではなかったか?
古墳の周りに「ハニワ」飾るのも、王を賞賛する言葉をかける意味だったかもしれぬ。
かおる
でも、土偶は、割られているのが多くて、宗教的な目的だっていうのが定説ですよ?
つづき
使い方のわからんものを、なんでも信仰に結びつけて解釈するのはどうかと思うのじゃ。
そこで研究や考察が止まってしまうであろう?
宗教的に使われるものでも、最初は日常的な大切な道具だったはずじゃ。
壊された土偶は、それで、情報交換の用が済んだからではなかろうか?
他人と契約を取り交わす時に、土偶を交換し、役目が終われば土偶を壊す、というように。
契約書や、貨幣のかわりだったかも知れぬ。
かおる
土偶、それこそが、神代文字だった、というわけですね?
付録・年表
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