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梵字を読むならカタカナで
Dec.6.2003
これはおみやげにかった経典の一枚だ。読もうとしたが無駄だった。
英語も苦手としていた私には、これがサンスクリット語なのかチベット語なのかもわからない。
チベット仏教の経典はすべてサンスクリット語の原典からチベット語に翻訳されたものらしいのではあるが。
チベット語の起源は、7世紀頃のこと、サンスクリット語から自分たちの言語、古文字を踏まえて作り出したという。
サンスクリット語の仏教経典を翻訳するために必要とされたのだろう。
翻訳作業は僧侶によって進められ、今では寺の中の壁の棚一面に、経典の束があふれている。
仏教経典のほか、あらゆる学問が書き記され、膨大な文献が残されることになった。
チベットは仏典の宝庫となった。それらをすべて学ぼうとしたら一生かかっても無理だという。
現代チベット語は、ガイドブックにも簡単な会話や単語の説明が書かれている。
が、それでも、チベットの街中で見られる看板の文字を解読したり、読み書きしたり話したりというのは、
とても容易ならざることだなあと、チベット語を学ぼうにも、まったくお手上げだなあと思っていたところ、
どうも、日本語との共通点もあるらしい。
すなわち「五十音」。
ア | カ | サ | タ | ナ | ハ | マ | ヤ | ラ | ワ | ン |
イ | キ | シ | チ | ニ | ヒ | ミ | | リ | ヰ |
ウ | ク | ス | ツ | ヌ | フ | ム | ユ | ル | |
エ | ケ | セ | テ | ネ | ヘ | メ | | レ | ヱ |
オ | コ | ソ | ト | ノ | ホ | モ | ヨ | ロ | ヲ |
日本には、日本語の発音をまとめた五十音表がある。
a,i,u,e,o,の母音とk,s,t,n,…の子音によって発生される音が縦横列の対応として、わかりやすく音韻表になっている。
チベットにも、五十音表に似た音韻表があるらしい。
日本のひらがな、カタカナのようなものだ。これなら意味がわからなくても音さえ覚えれば読めそうだ。
え?意味がわからなければ、読めても意味がない?いやあ、ごもっとも。
でも、経典を読むときでも、音さえわかれば、そのように口に出して読めば、
意味がわからずとも、なんとなくありがたい気がするものだ。
日本やチベットの五十音表は、これまた古代インドの学問のひとつが起源である。
人の口から発生される音を体系的にまとめた音韻研究があり、この発音記号が、
梵字、つまりサンスクリット語の古代文字(シッダ・マートリカー)として書き表された。
五十音表のルーツだ。
これらが、悉曇学(しつたんがく)として7世紀に、日本に持ち込まれた。
日本語の音韻も、悉曇学にあてはめ、多くの学者らによって研究された。
そして、梵字に代わる表音記号の「カナ」を編み出し、日本式五十音表の原型が作られた。
「アカサタナハマヤラワ」と言う時、音の発生場所がのどの奥から手前に来るようになっている。
五十音表は、当時の科学を結集して理論的に作られているのである。
ところで、日本語の表音記号としての「カナ」は、漢字の部首から取ったということになっていて、
漢字を読むための読み仮名か、日本語を書き表すための表音記号だと思われていた方も多いと思う。
が、ひとつ不思議なのは、なぜ、「五十音」なのかということだ。
もともと漢字は外国語であり、日本人が必要になったのは、漢族と文書を交換するためである。
必要に迫られたのは、漢族の話し言葉を聞き取って、漢族の発音通りに漢字に読み仮名をふることだったはずだ。
漢字を、漢族が話すように、きちんとした発音で読むためには、
五十音以上の母音や子音が必要だったはずだ。なのに、拗音を多少工夫したくらいで、
漢族の複雑な発音を組み込まず、日本人の話し方の「母音」「子音+母音」の、
ヤマトコトバ式発音の組み合わせのみで「五十音」として編纂されたのはなぜだろう?
どうせなら、もっと発音記号を増やして、日本人も漢族の話し言葉の発音を練習すれば、
漢字で書かれた仏教経典なども正しく読むことが出来るようになり、ありがたみが増しただろう。
なのに、何故そうしなかったのであろうか?
おそらく、日本には言霊信仰が根強くあり、聞き慣れぬ音韻を取り入れることで、
ヤマトコトバが変質していくことに抵抗があったのではないか。
そのかわり、漢族の発音を簡略化した音節を「音」とし、ヤマトコトバの語彙を「訓」とするという、
日本語に漢字をうまく取り入れるシステムを作り出したのだ。
結果、漢族の話し言葉の発音で漢字を読むことを放棄してしまった。
しかもまだ不可思議なことがある。ヤマトコトバの母音に関しては、鎌倉時代以前には8つあったとされるのに、
その後、母音までも5つに統合されてしまった。五十音が登場した影響と思われる。
なぜ、ヤマトコトバの語彙を現すのに重要な母音まで、3つも廃棄してしまったのだろうか?
五十音は、漢字を読むためでも無く、ヤマトコトバを書き表すためでも無かったのか?
この謎は、大きい。
注目すべきは、この頃、日本の仏教界に、新たな理念を持った一派が出現したということである。
彼らは、仏の教えを真に学ぶためには、梵字で書かれた仏典の言葉を発音を含めて学び、
梵字の経文、つまり、サンスクリット語の正しい発音で読唱する必要があると捉えたのである。
オリジナルの発音を学ぶには、梵字の音韻を記した悉曇学が最適であった。
彼らは、悉曇学に習い、梵字の五十音表をテキストとして、梵字にカナをふり、
梵字の経文を正確な発音で読めるようにしたのである。
そして、日本で作られた五十音表とともに梵字の経典の布教に努めた。
日本に五十音が広まったのは、彼ら仏教徒たちの布教活動の成果なのである。
その代表人物は、誰あろう、
弘法大師空海
その人であった。
語学にたけていた空海は、梵字の発音「陀羅尼」で仏の教えを説く「真言密教」を創設した。
まことに、インテリが思いつきそうなことだ。
真言を布教させるために、カナがあることは都合がよかったし、また不可欠だったに違いない。
ようするに、
カナは梵字の発音記号だった
のである。
「カナ=仮の名」というのは、梵字の真の言葉を読み表す「真言」と対応するではないか。
だとすれば、五十音表のカナは、ヤマトコトバの発音を正確に書き表しているのかどうかも問題だ。
一見して五十音表は日本語の体系を装ってるようにみえるが、その実は、
古代インドのサンスクリット語の発音、つまり「真言」の発声理論を表しているからだ。
たとえば「タチツテト」の「チツ」にしても、実際の話し言葉の発音は、(chi) (tsu)であるが、
五十音にのっとれば(Ti) (Tu)と発音しなければならないのだ。
五十音は、ヤマトコトバの多様な音韻の変化を規格化し、理論的に体系づけられた音韻へ矯正するものなのだ。
一説には、「ハヒフヘホ」の音韻も、古代日本には存在せず、「ぱぴぷぺぽ」と言っていたという。
しかし、古代日本人が「ハヒフヘホ」と喋っていなかったというのは、どうも私は納得しがたい。
富士は「プジ」なのか?なんとなくいやだ。
貴方は喜びの声をあげるとき、ハハハハと言うだろう。パパパパとは言うまい。
人間の発する基本的な声音であるはずだ。
「ha,hi,fu,he,ho」という音韻は、古代日本のヤマトコトバにもあったはずである。
ハヒフヘホは消されたのだ。
つまり、当時の悉曇学者が、「ha,hi,fu,he,ho」の気音を正式な言葉として認めず、
五十という区切りの関係もあり、五十音から排除してしまったということが考えられる。
サンスクリット語では、p音は、k,s,t,n,…と同列の子音と捉えられており、"hの半濁音"という概念は無かった。
そのため、「na,ni,nu,ne,no」の後に「pa,pi,pu,pe,po」を置いたとしても不思議は無い。
つまり「ハヒフヘホ」の文字列は、pa,pi,pu,pe,poと発音せよと、五十音表によって定められたのである。
適当に定められたのではなく、サンスクリット語がそうなっているのだ。
そして、ha,hi,fu,he,hoという発音は、恣意的に使用を廃止されてしまったのだろう。
室町時代は、母の「ハハ」を、「ファファ(パパ)」と言っていたようであるが、
もともと「ハハ」だったのを、p音に言い直すよう、五十音表に基づき指導された可能性もある。
なぜ、わざわざ、そんな面倒な言い直しがされるようになったのだろうか?
空海が、真言とセットにして五十音を広めようとしたならば、
日本人の発音を、より真言を読みやすい発音に矯正しようという目論見があったとしてもおかしくない。
「ハ」を「パ」と言い改めたのは、真言を発音するため、日本語を変革する必要があったからではなかったか?
たとえば、文殊菩薩の真言「オン・ア・ラ・ハ・シャ・ノウ」は(Om a ra pa ca na)と発音する。
「ハ」は「pa」と発音するのが本当なのだ。
かわりに、「ha,hi,fu,he,ho」を発音する真言はみかけないようだ。
空海は、真言に使われない「ha,hi,fu,he,ho」の音韻を、日本語の中に必要としなかったのだ。
どうだね?ワトソン君。
もしかしたら、空海の企てた日本語真言化矯正計画は成功し、今我々は、日本古来の発音ではなく、
サンスクリット語の発音で、日常会話をするようになってしまっているのかもしれない。
事実として、真言が広まるにつれて日本語の8母音体系は壊滅し、5母音として定着していったのだ。
一方、この当時、五十音と同じく、日本語に影響をおよぼす、あるものが流行した。
「いろは歌」だ。
いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ
うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑひもせす
これは、字母歌といい、同じ音をひとつだけ使い、日本語の音韻すべてを表している。
いろは歌は、五十音表が出来た後に、平安時代後期に歌われたとされている。
言うまでも無く、日本の表音文字は、「五十音表」で決められた片仮名で統一される予定だった。
が、漢字を草書体で書き表す中で、自然発生的に平仮名が生まれ、
結果的に2種類の表音文字が使われるようになった。
これは、五十音を提唱した空海も予期しない出来事だったに違いない。
平仮名が生まれると、「いろは歌」との相乗効果で、平仮名は庶民の間に浸透していった。
五十音表の片仮名の味気ない文字の並びよりも、「いろは歌」は親しみやすかったに違いない。
平仮名が定着したのも、「いろは歌」の流行があってのことだろう。
やがて、平仮名は、片仮名よりもメジャーな日本語仮名として庶民に愛され、識字率を引き上げることとなった。
五十音は、母音と子音が明瞭に対応し、文字を学ぶと同時に、日本語の発音を規格化するものだ。
しかし、いろは歌は、ランダムな音の並びにすぎない。いろは歌をもとに、平仮名を学ぶということは、
自分が話していた古来からの日本語の音韻に対応させて、文字が学べるシステムなのである。
これにより、真言の影響も最小限に留まり、古来からの日本語の発音は保護されてきたと言っていいだろう。
いろは歌が、「いろぱにぽぺと」と歌われていたという話は聞いたことが無い。
どこかの方言に残されていてもよさそうなものだ。
「pa,pi,pu,pe,po」の音韻の方がヤマトコトバとして不自然だったという、これ以上の証拠がどこにあろうか?
「いろは歌」によって、空海の日本語真言化矯正計画は頓挫し、日本語は救われたのだ。
「ハヒフヘホ」も(ha,hi,fu,he,ho)として、「タチツテト」も(ta,chi,tsu,te,to)として音韻が残された。
もし、貴方が(ta,ti,tu,te,to)と発音していたなら、それは真言が布教された当時からの影響が考えられますぞ。
五十音表は、近代までの間にすこしずつ改定されてきたが、いろは歌はその姿を変えていない。
そのことからも、いろは歌の完成度の高さ、日本語への貢献度の高さが伺える。
にもかかわらず、「いろは歌」の作者は、どういうわけだか、何者か知られていない。
なぜ隠されたのだろうか?
ことによると「いろは歌」は、五十音をひっさげて日本語を矯正しながら拡大を続ける真言密教に対し、
抵抗する勢力が生み出した、真言密教を封印するための、日本古来の言霊を駆使した呪文かもしれない。
その作者として、もっとも可能性があると私がにらむのが、
平安京西寺の怪僧守敏僧都だ。
平安時代、京の都の羅城門の朱雀大路をはさむ東西には、東寺、西寺が配置され、都を邪気から守っていた。
西寺の守敏僧都は、東寺の空海と並ぶ大僧侶で、ライバル関係にあったのである。
悉曇学者らが日本語の五十音表記を提唱していたとき、守敏僧都も策定プロジェクトに参画していたに違いない。
そこでも、空海と守敏僧都は、五十音の意図する中身について対立があったことだろう。
空海は、五十音を悉曇学理論に基づく梵字の発音記号として利用し、日本語の矯正を画策していたが、
一方、守敏僧都は、五十音はヤマトコトバの発音を重視すべきだと、空海の野望を諫めようと努力した。
しかし、学者の多くは空海を支持し、日本語は五十音に規格統一とすべきと、帝の御前で決定したのである。
業を煮やした守敏僧都は、五十音表に代わる「いろは歌」の呪詛を密かに編み出したのだ。
いろは歌の持つ無常感には、ヤマトコトバの未来を憂う守敏僧都の胸中がよくあらわれているではないか。
そんな折、二人の関係を決定づける事件がおきた。
二人は帝に呼び出され、日照りによる干ばつを解消すべく降雨祈願の祈祷を命じられたのだ。
世に名高い、降雨祈願法力対決である。
空海がゴマを焚きながら「アカサタナ!」と祈り、雷鳴轟くなか、天の竜神を呼べば、
対する西寺の守敏僧都が「いろはに!」と応戦し、瞬くまに竜神を封印し、空海のはなをあかす、
といった光景が京の都で繰り広げられた。
壮絶だ。
万一、貴方が、そのような争いに遭遇したならば「くわばらくわばら」と呪文を唱えつつ退散しよう。
守敏僧都は、しかし、空海との法力対決に破れ帝の寵愛を失った。そして、歴史の闇に葬り去られた。
都を離れた守敏僧都は、失意のうちに、どこか地方の山寺に隠れすむしか無かったろう。
いろは歌も、本来ならば、作者不詳として消え行く運命だったであろうが、少数の弟子たちによって伝えられた。
真言宗は、いろは歌を真言布教を阻むものとして隠蔽しようと画策したものの、やがて、京の民衆にも知れわたり、
歌いやすさと無常感から民衆の絶大な支持を得て、急速に広まっていくこととなった。
後に、空海の作と呼ばれた時期もあったが、それもまた守敏僧都の偉業を覆い隠そうとした証であろう。
さて、明治になり、片仮名が漢文公文書や教科書で目に触れる機会が多くなると、日本は動乱の時代を迎える。
戦後になり、教科書に使われる文字が平仮名に制定されると、日本は一応の平和を取り戻すことになる。
思えば、片仮名には何か民衆の心を揺さぶる魔力でも秘めてあったかのようでもある。
現在、片仮名は外来語の発音を表すようになったが、
外来語の大量流入と共に、急速に片仮名を目にする機会が大変増えてきている。
空海の法力は現代でもなお衰えることがない。
<続く>
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