4、
「コーヒーを入れてくるから」と言って、お兄ちゃんが出て行くと、物の少ないお兄ちゃんの部屋はがらんとして見えて、何だかちょっと、もの悲しいようだった。
机の上に置き去りにされているのは、すっかりさめてしまった紅茶の入ったカップが2つ……。
さっきまで、あの女の人は、ここにいたんだ。
ここで、お兄ちゃんの真正面に向かい合って、紅茶が冷めるくらい、夢中になって何かしてたんだ……。
何をしていたんだろう――それを考えるのは怖かった。
考えないようにすればするほど、嫌な考えが頭をよぎってしまう。
もしかして。もしかして……お兄ちゃんは……あの人と……。
ううん。それはないはず。だってさっき、頬に口付けされただけで、お兄ちゃんは驚いていたじゃない。
そうよ、もっとお兄ちゃんを信じなきゃ……。
「か〜れ〜んちゃん」
「きゃっ!」
耳元で響いたその声に、私は飛び上がった。
白いコップをそれぞれの手に持って、すぐ隣に立っていたお兄ちゃんが、そんな私を見て楽しげに笑う。
「何だか考え込んでいたみたいだね? 何をそんなに考え込んでいたんだい?」
「えっ……」
訊かなきゃ……。
黙ってても、何にも分からないもの……。
「あ、あの、ね」
「うん?」
「ええと……あの……。……何でもない」
駄目……。やっぱり……訊けない……。
「おかしな可憐ちゃんだな。ま、これでも飲んで」
にっこりと微笑んで、コップを差し出すお兄ちゃん。
私はそれをおずおずと受け取った。
お兄ちゃんのは、コーヒーみたい。
でも、私のコップの中から漂うのは、ココア甘い薫り。
……お兄ちゃんは、いつも優しい。
自然と頬が緩む。
私はそれを隠すように、コップを両手で包んで、手を温めた。
「学校の帰りかい? いけないな、1人で学校帰りに来るなんて」
「でも、お兄ちゃんの家だし。平気」
「平気じゃないよ。もっと、気をつけないと」
「えへへ」
お兄ちゃんとの他愛ないお話。
嬉しいな……。
コップを傾けて、甘いココアを一口すする。
「そういえば、今日、咲耶ちゃんと一緒じゃなかったの?」
……さくや、ちゃん……。
「えっ……うん……途中……まで」
「そっか。咲耶ちゃん、元気だった?」
「……う、うん」
私は――嘘つきだ。
咲耶ちゃんにあんなことを言っておいて、今度はお兄ちゃんにまで、嘘をつこうとしている……。
「そっか、それはよかった。咲耶ちゃん、最近暗いみたいだから、心配してたんだ」
「……」
「それにしても、こんな遅くまで、一体何をしてたんだい、可憐ちゃん。ずっと、咲耶ちゃんと一緒だったの?」
私はうつむいた。
「う、ううん……」
「じゃあ、1人で?」
「うん……」
「駄目じゃないか、こんな遅くまで1人で出歩いちゃ」
「……」
「何か、あったのかい?」
「……お兄ちゃんに、会おうと、思って」
お兄ちゃんがくすりと笑うのが、聞こえる。
「なるほどね。光栄だな。でもね、こういう風に遅くなる時には、先に連絡しておいて欲しいな」
お兄ちゃんは……優しい。
こんな時でも。
「……どうして?」
口をついて出た、言葉。
「どうしてって……心配になるだろ?」
「……さっきの、女の人と、会っちゃうから?」
「さっきのって……」
私は、ココアに口をつけた。
ココアはまだ暖かかった。
「……もしかして、ずっと見てた、とか? キスのところだけじゃなくて」
ばつが悪そうに、お兄ちゃんは声のトーンを落とす。
私はうなずいた。
「そっか。変なところ見られちゃったなあ。あれ、学校の先輩なんだよ。今日中に終わらせなきゃならない委員会の仕事が残っちゃってさ。家でやって来るって言っておいたら、家に来たんだ。それで、仕事手伝ってもらってたんだよ」
「ほんとに……それだけ?」
「? 勿論だよ。……本当に変なとこ見られちゃったな。……あの先輩、ふざけるのが好きなんだよな」
もう一口。ココアを口に含む。
……やっぱり、お兄ちゃんは、分かってない。
「……お兄ちゃんは、あの人の事、どう思ってるの?」
「どうって?」
「……」
お兄ちゃんがふーっと吐き出す、ため息の音。頭を掻いているみたいだ。
「……可憐ちゃん、変な事考えてるんじゃないか?」
ううん。そんな事、本当は考えてない。でも、お兄ちゃんの口からそれを聞きたい。ただ……それだけ。
「本当に、あの人とは何でもないんだよ。ただ、一緒に仕事して、その後お茶を飲んでいただけで」
私は答えなかった。ううん、答えられなかった。
だってお兄ちゃん……可憐は、どんな風に答えればいいの……?
お兄ちゃんが、再度、ため息をつく。
気まずい沈黙……。
ああ……こんなのは嫌……でも、何を言えばいいのか分からない……。
「……先輩とは、ほんとに、何でもないんだけど、ね……」
「…………」
「でも最近、彼女作ろうかなって、思っては、いるん、だ……」
えっ……!?
「ほら、俺だって彼女の1人くらい、欲しいなあとか思うし――特定の子がいないから、こうやって可憐ちゃん達にも心配をかける」
驚きのあまりに声も出ない私。
その顔を覗き込むようにして、照れくさそうに笑うお兄ちゃん。
「実は、俺も先輩、結構いいなあ、とか思ったりしてるんだ」
照れてちょっと赤くなるお兄ちゃんのそんな顔は、今まで見た事もない。
嘘……嘘でしょ……?
目の前が真っ暗になる――。
お兄ちゃんの声が、ひどく遠く、聞こえる。
耳と体が切り離されちゃったような――そんな感じ。
目眩がする。
目眩で頭が、くらくらする。
でも――でも。でも、お兄ちゃんの声は、いつもと、全然、変わらない。
言わないで。それ以上何も言わないで。
それでも私の声は出ない。
喉のずっと奥に、乾いた布をぎっちり詰め込んだみたいに、声が出ない。
――胸が痛い。べこんってへこんじゃったみたいに、痛い。
息が出来ない。
「だから、もし、先輩が同じように思ってくれてるなら――――」
やめて。
やめてやめてやめてやめて。
「――ちょっと、言ってみようかな〜なんて――」
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて。
「――思ってるんだ」
あああああ……。
ああああああああああ……。
お兄ちゃんはその気だ。
お兄ちゃんが。
お兄ちゃんが。
お兄ちゃんが。
私の――お兄ちゃんが。
「いや、なんだか――こうして改めて話すと、何だか照れ臭いな」
………………。
「? 可憐ちゃん?」
だめ。
……もう、だめ。
だめ。
……もう、だめ。
私……もう、だめ。
私、もう、だめ。
「……お兄、ちゃん」
「ん? ……可憐ちゃん、何だか顔色がよくないよ? 風邪でも……」
「お兄ちゃん!」
私は――胸のリボンに、手をかけた。
「? なんだい?」
「お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……可憐の事、嫌い?」
リボンを、ほどく。
「ええっ? 突然どうしたんだい?」
「答えて、お願い」
「ど、どうしたんだい、一体?」
リボンを引くと、ブラウスの生地にすれて、しゅるりと音がした。
「答えてっ!!」
「……。困ったな……」
「…………お兄ちゃんは、可憐の事、嫌い……?」
「嫌いな訳ないよ! そんな事、ある訳ないじゃないか!」
ああ……神様。
可憐は、悪い子です。
ああ……でも……でも、神様……。
可憐はたとえ地獄に堕とされるとしても、可憐は、可憐は……!
「……どうしたんだい、突然? そんなに、大きな声出して」
お兄ちゃんの、優しい声……。
ごめんなさい。
ごめんなさい、お兄ちゃん。
可憐は――可憐は――悪い子です。
「お兄ちゃん……可憐は……可憐はね、お兄ちゃんの事、大好き」
「……それは……ありがとう」
お兄ちゃんが苦笑したように微笑む。
「可憐はね……お兄ちゃんの事、愛してる」
ブラウスの、ボタンを外す。
「……可憐ちゃん?」
ああ……可憐の……可憐のブラジャー、見えちゃう……。
こんなシンプルなのじゃなくて、もっと可愛いのをつけてくればよかった……。
私は、立ち上がって、スカートのホックを外した。
「か、可憐ちゃん!? い、一体何を……!?」
「愛してるのよ。――お兄ちゃん」
スカートは、私の足元に落ちた。
……今私は、お兄ちゃんの目には、どんな風に見えているんだろう?
「……可憐ちゃん、服を……」
私は、お兄ちゃんの目の前に出た。
私が、見えるように。
「可憐はね、お兄ちゃんの事、愛してるの」
お兄ちゃんは、真っ赤になって、息を呑んでいる。
「お兄ちゃんは、可憐の事……どう思ってる? 可憐の事、可愛いって思ってる? ……愛して、くれる?」
「…………」
お兄ちゃんは答えない。
ううん。
多分、答えられない。
私は、お兄ちゃんに近付いた。お兄ちゃんの手の届く、すぐ、近くに。
私は――お兄ちゃんの目に、どう映っているのだろう?
「私……私――お兄ちゃんのものになりたいの」
ああ……もう、戻れない。
「お兄ちゃんに、他に女の人がいてもいい……私、お兄ちゃんに欲しいって言ってもらいたい……お兄ちゃんに、愛してるって、言って欲しい……」
私は、お兄ちゃんの手を取った。
お兄ちゃんの手は、堅くて、大きくて、骨ばってて、そして――ちょっと冷たい。
その手を、私の――胸へ押し付ける。
ああ……これが、お兄ちゃんの手……。
いやだ…………感じちゃう。
お兄ちゃんは……動かない。きっと、びっくりしてる。
ごくりと喉を鳴らして――お兄ちゃんが、慌しく口を開く。
「でも……でも、俺達は――兄妹なんだぞ……!?」
「分かってる……そんな事。でも……それだって……男と、女……じゃない……」
「可憐ちゃん……」
「可憐ちゃん、なんて……やめて。可憐、って呼んで……」
お兄ちゃんの手を、より強く、私の胸に押し付ける。
お兄ちゃん……感じてる……?
私の胸の先っぽが……こんなに硬くなってるの……。
こんなに……胸がどきどきしてるの……。
「可……憐……」
私は、お兄ちゃんの膝の間に片膝を入れて、よりお兄ちゃんに近付いた。
吐息がかかるくらい、近く。
「可憐は……お兄ちゃんのものよ……お兄ちゃんのものに……なりたいの……」
お兄ちゃんの手で、私の胸を押し潰すように、お兄ちゃんの手を押し付ける手に力を込める。
「可憐……」
お兄ちゃんの目を、覗き込む。
「お願い……お願い……お兄ちゃん……!!」
お兄ちゃんも、可憐の目を覗き込んでいた。
お兄ちゃんの驚いた顔が、ゆっくりと――醒めて行く。
何――この、感じ――!?
「ううっ、はっ……! ああ……っ!」
お兄ちゃんの手が、動いている。
押し付けたお兄ちゃんの手が、ゆっくりと――私の胸を、揉んでる……。
「うふぅ……っ ああ……っ!」
「……柔らかいな……。可憐の胸は……。ぴくぴくしてるよ……」
「お、お兄ちゃん……」
私の吐く熱い息を吹きかけられながら、お兄ちゃんはにっこりと笑った。でも、その目に、ふざけた様子はない。
お兄ちゃんが私と、くっつきそうなくらい、顔を近づける。
「可憐……可憐。……本当に、いいのかい? ……もう二度と、戻れないんだよ?」
私の胸を揉む手を休めて、お兄ちゃんは私の目を覗き込む。
その真剣な眼差し……。
ああ……私は一体、どれほどこの時を待っていただろう……?
私は、頷いた。
深く、頷いた。
「……本当に?」
確かめるように、私を見詰める、お兄ちゃんの目……。
もう一度、私は頷いた。
「可憐は、お兄ちゃんを愛しています。可憐は――お兄ちゃんのものです……ずっと」
「……。そうか……。わかっ――た」
お兄ちゃんの手が、更に強く、私の胸を揉む。
「……んんんっ!」
痛みはなかった。
痛みの代わりにじわっと広がった、むず痒いような、お腹の底を揺さぶるような、今まで感じた事のない感覚に、私は震え上がった。
お兄ちゃんが指先で、私の胸の先っぽを軽くつまむ……。
自分でも分かる。お兄ちゃんの指の間に挟まれた、このコリコリとした感じ。
「あっ……! はああっ!」
声が全然抑えられない。
私は自分の口から迸った声に、びっくりした。
でも……だめ。
……お腹の奥が、炙られたみたいにじんとして。体が、震え上がっちゃう……。
なんだか……なんだか……溢れて、きちゃった、みたい……。
「……女の子の胸って柔らかいな……でも、乳首はこんなにかたい……可憐、そんなに興奮してる?」
「ん……」
顔がすっごく赤らんでくのが分かる。
お兄ちゃんは、やっぱりちょっと鈍い。
女の子がこんな――恥ずかしい声、上げてるのに……もう。
「……ブラジャー、外していいかい?」
「え? あ……うん」
私のちょっと戸惑った声に、お兄ちゃんはふっと優しく微笑んだ。
胸を触る手をそっと離して、私の頬に触れる。
「今日は――やっぱり、やめておこうか? そんなに、焦らなくてもいいんだよ? ……可憐の気持ちは分かったから。別にそんなに急がなくても」
……お兄ちゃんは、優しい。
とっても優しい。
優しすぎて……。
でも……今は、そんな優しさが――ちょっと嫌い……。
「お兄ちゃん……リボン、取ってくれない……?」
お兄ちゃんの手を握っていた力を抜いて、少し、体を離しながら、私は呟いた。
「えっ? どれだい?」
「その……赤いリボン」
私は私の服から抜き取ったリボンを示した。
お兄ちゃんは戸惑いながらも、私から離れて、リボンを取りに立ち上がる。
私は……ゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
覚悟は……出来てる。
ずっと……ずっと前から……。
「このリボンかい? これがどうしたんだ?」
「……私初めてだから……きっと、お兄ちゃんに抱かれてても、嫌とか、言っちゃうと思うの」
「え? あ、ああ。うん。なるほど。まあ、ええと、その……そうかもね。でも、だから……」
「でもね」
私はお兄ちゃんの言葉を遮った。
「そんなことで、今日を……今、こうして、お兄ちゃんと一緒にいる時間を、無駄にしたくないの」
「……? でも、可憐ち……可憐、そんなに、急ぐ事ないんだよ?」
お兄ちゃんの顔を見なくても、お兄ちゃんが今どんな顔をしているか分かる。
お兄ちゃんは、時間をおけば、私がきっと後悔すると思ってる。
そうかもしれない。
でも――そんな後悔、絶対に嫌。絶対にしたくない。
だから……だから――。
「お兄ちゃんに、お願いがあるの」
「ん? なんだい?」
「そのリボンで、可憐の両手を縛って欲しいの」
「え……? えええっ!?」
「それでね……可憐が嫌だって言っても、絶対にやめないで欲しいの。可憐がもし暴れたとしても、絶対――絶対にやめないで欲しいの」
「可憐……」
お兄ちゃんは、呆然としているみたいだった。
なんてはしたない――無茶なお願いだろうって、私も思う。でも、これが可憐の本当の気持ち。
「お願い……お願い、お兄ちゃん」
今この時――今しかない。
今を逃したら、きっと、私は後悔する。
今を逃したら、もう二度とこんなに勇気を振り絞るなんて出来ない。
だから――だから――!
「本当に……本当に? 本当に……本気なのかい?」
私は頷いた。
お兄ちゃんは静かに目を伏せた。
お兄ちゃんの指先で、緩やかに揺れるリボン。
「…………」
深い沈黙。そして――。
ぎゅっと私のリボンを握り締めて――お兄ちゃんはこれまで以上に真剣な顔で、私を見詰めた。
「本当に、いいんだな? ……絶対に、後悔しないな?」
それは――一人の男の人としての言葉……。
私は――。
「うん……うん……!」
嬉しくて、泣き出しそうになった。
きっと――私は、今この時、お兄ちゃんが言ってくれた言葉を決して忘れない……!
お兄ちゃんは黙って私に近付くと、身振りで私に背中を向けるよう伝え、そっと私の両手を取った。
背中に回した腕に、ひんやりとした冷たさが触れる。
これが、お兄ちゃんの手。
お兄ちゃんの手が、私の手を、私のリボンで、縛り上げる。
「きつく……縛って。ほどけないように」
「…………。分かった」
お兄ちゃんの手は、更にきつく――ちょっと腕が痛むくらい、リボンで私の手を縛り上げる。
私の両手は、これで動かない。
お兄ちゃんの邪魔は出来ない。
「可憐……」
お兄ちゃんの両手が、私の肩をつかんだ。私は、お兄ちゃんの腕の中へ引き寄せられる。
「可憐……本当に、いいだな?」
三度繰り返される、お兄ちゃんの言葉……。
でも、私の答えは決まっている……。
「はい……お兄ちゃん……」
私とお兄ちゃんは、キスをした。
プラスとマイナスがくっつきあうような、キス。
私のファーストキスは――びっくりするほど乱暴で、気が遠くなるほど激しくて、舌がしびれて震えるほど情熱的で――コーヒーの苦味の残る、キスだった。
あんまりに気持ちよくて、気が遠くなって……私が少しだけおもらししてしまった事は、お兄ちゃんには、絶対内緒。
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