3、
「……お兄ちゃん……いるよね……?」
見上げると、東の空には、白くて丸い月が群青色の空の中に、ぽっかりと浮かんでいた。
二階にあるお兄ちゃんの部屋の窓からは、優しい橙色の明かりがこぼれていた。
お兄ちゃんはいるみたいだった。でも――1人じゃない……。
楽しそうにお話する声が聞こえる……。
男の人の声はお兄ちゃん……もう1人の声は……女の人の声……。
胸がきゅうっと締め付けられるみたいに痛くなった。
お兄ちゃん……今、一緒にいる人は……誰……?
二人の笑い声が、いよいよ近づいてくる。
扉の向こうに、二人の声が聞こえて来る。
私の足が勝手に走り出して、私を庭の木陰へと連れ出した。
その影から、扉が開くのをそっと見守る私。
「じゃ、また」
大人の女の人の声。
「本当に送らなくていいんですか?」
すまなそうなお兄ちゃんの声。
「いいの。気にしないで。……本当に優しいのね」
「そんな事ないですよ。普通です」
「ふふっ……。誰にでも、普通に、ね」
「……?」
お兄ちゃんは戸惑っている。
そう……お兄ちゃんは誰にでも優しい。それが当たり前のように。
「だから、今日はいいわ」
「そう……ですか?」
「そっ。……あっ」
突然、女の人が顔を伏せた。片目を覆っているようだ。
「どうしました?」
「目に何か入っちゃったみたい……ちょっと見てくれる?」
「分かりました。……こっちを」
お兄ちゃんが女の人の肩に手を置いて、彼女を自分の方へと引き寄せる……。
そんなの嘘よ! どうしてそれに気付かないの、お兄ちゃんっ!?
気付いて、お願いだから。
可憐が――可憐がここにいるのよ?
可憐が、ここで見てるのよ……!
飛び出したかった。でも、足が動かない……。
二人の顔が、近付く――。
「あっ!!」
お兄ちゃんが驚きの声を上げて飛びのく。
私は……両手で口を抑えて、必死で声を飲み込んだ。
お兄ちゃん……お兄ちゃん……!
「な、何を……!?」
「ふふっ……鈍感なんだから……」
「……だからっ……一体何を……!?」
「君がそんなだから、今日は頬。……できれば、唇へは君からして欲しいな?」
「えっ……?」
女の人は、いたずらっぽく笑うと、身を翻した。
大人っぽいスカートの裾が、ふわりと柔らかく宙を舞う。
「じゃ、ね」
口を抑えたまま、呆然と見ていた私の目の前を、女の人は小走りに駆け出して行った。
「まいったな……」
門の向こうに消えて行った女の人の後姿を、あっけに取られたかのように見送っていたお兄ちゃんは、キスされた頬を手のひらで軽く擦ると、ため息混じりの苦笑をもらした。
お兄ちゃんは……困っているようだった。でも、嫌がっているようには、見えない。
お兄ちゃんは深く息を吐き出すと、扉に手をかけた。
私は……私の足は……また、勝手に走り出していた。
「お兄ちゃん……っ!!」
「えっ……?」
私は、お兄ちゃんの背中に、抱きついていた。
「一体どうしたんだい、こんな遅くに」
それが、お兄ちゃんの第一声だった。
私は……何も言えなかった。
「何か、あったのか? ……部屋にでも行こうか。コーヒーでも入れるよ」
お兄ちゃんはいつも通り微笑んで、可憐の背中を押す。
でも……。
「……? どうしたの?」
「さっ……き、の……ひと……」
言葉が、うまく出てこない。
「ん?」
お兄ちゃんの不思議そうな声……。
今はそんな何気ない一言さえ、残酷に聞こえる……。
「さっきの……さっきの……ひ、と……」
「さっきの人?」
「だれ……?」
「えっ……?」
お兄ちゃんが、首を傾げる。
ああ……もう……もう……だめ……。
涙が、涙が、止められない……。
「さっ、さっきの、ひとっ……だれ……だれなの……?」
涙がこぼれて来る。堰を切ったかのように。次から次へと。もう駄目。止められない……。
「さっきの人……だれなの……!? お兄ちゃんの、お兄ちゃんの、お兄ちゃんの何なの……!?」
「さっきのって……ああ、あの人? 学校の先輩だよ、単なる」
「だって……だって、キス、してたじゃない……!」
「見てたのか……? 馬鹿だな、からかったに決まってるじゃないか。そんな関係じゃないよ」
「だって……だって……!」
ううん、分かってないのはお兄ちゃんの方。あの人はきっと本気。私には分かる。あの人は、本当にお兄ちゃんを……!
「ともかく、家にお入り。コーヒーでも飲んで、落ち着こう。ねっ?」
お兄ちゃんは泣きじゃくる私の肩を優しく抱いて、私を部屋の中へと誘った。
私は……何も考えられなかった。ただ、お兄ちゃんの手の暖かさを感じ取っていた。
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