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単一民族という村社会


April.20.2004





つづき
日本人というのは、昔は、単一民族と呼ばれておったな。

かおる
アメリカは強大国ですが、民族が入り混じって作られた、とても歴史の浅い国ですね。
中国は、四千年の歴史をうたってますが、単一民族というわけではないでしょう。
そのあたり、日本は、建国の歴史の古さ、伝統や、天皇家の血筋の古さが世界一であることから、
単一民族国家であることが、一種の誇りと呼べるものだったでしょう。
けれども、ちょっと前にアイヌを少数民族として認めたり、DNA検査から、
日本人は、単一民族というより、近隣のアジア人の混血民族だと学会では定説になりましたね。

つづき
日本人の顔つきのバリエーションが豊富なことからも、日本人は単一民族では無いと、
うすうすは知っておったにも関わらず、顔つきが違うことが、
日本人としての特異なユニークさだとして誇らしく思い、
民族的には単一であるという考え方が、ずっとなされておったわけじゃな。

かおる
いまでも、気持ち的には、単一民族と言っていいでしょう。
単一民族であることが、日本人のアイディンティティみたいなものですから。
つづき
外国人が日本に来たとき、よくマスコミが報じることは、
外国人が日本文化に触れ、箸を使い、テンプラや刺身を美味そうに食べる姿じゃな。
かおる
日本人と同じ感覚を共有できる人、ということで、親しみがわくのでしょう。

つづき
しかし、日本の習慣になじめる者ばかりでもあるまい。
そうした外国人は日本人と距離を置こうとするやも知れぬな。
かおる
そういう外国人は、何を考えてるかわからない人ということで、白い目で見られるでしょうね。
白人はまだしも、アジア人だったら、犯罪者予備軍のような陰口を叩かれるかも。
とくにビジネスで日本に来た外国人は、仕事の後の「飲み会」に戸惑う人も多いわけですが、
飲み会に参加する者は、参加しない者よりも、社内でも円滑に仕事が出来るそうですね。

つづき
「皆(日本人)と同じである」ということを確認しあって、安心できるのであろうな。

かおる
同じ日本人であっても、ちょっと風貌やものの考え方が違ってる人というのは、
敬遠されるというか、悪くすれば村八分になるということでしょう。
つづき
日本人は、単一民族であるという誇りにアイディンティティを生み出し、
単一民族であろうとするために、より強固な村社会化を形成していったのであろう。
かおる
そうして、団結してきたとも言えるでしょう。長い歴史の中で、大きな内戦も無く、
ひとつの国としてまとまることの出来たのは、世界的にも珍しいことです。
つづき
村社会というのは、助け合い精神が培われたり、礼儀を重んじ、
他人に迷惑をかけず、犯罪を予防するという、良い面が確かにある。
しかし、一方で、村社会を維持するために、機能せざるをえない暗部というものもあろうて。

かおる
村社会の暗部とは何ですか?

つづき
異質なものを、排斥しようという動きじゃ。

かおる
う〜ん。 そういう面は、あるかも知れないけど。
でも、本当は、差別や、蔑視は、いけないことだって事は、日本人もわかってるんじゃあないかなあ?
つづき
しかし、ある、特異な状況下に置かれると、異質なものを排除しよう行動に、
無自覚的に国全体が一致団結して動いてしまうということがあるのじゃ。
いつ頃からか、日本人のDNAに刷り込まれた行動パターンなのかも知れぬ。 とても興味深い現象じゃ。

かおる
ほほぅ? たとえば?

つづき
関東大震災、太平洋戦争の敗戦直後などでも、
特定の「ある人々」が、水に毒を混ぜたの、略奪をしているだの、騒乱を起こそうとしているなどと、
そういうよからぬ噂が立ち、「ある人々」が弾圧を受けるということがあったわけじゃ。

かおる
それは、まあ、その「ある人々」というのが、日頃から何か、一般庶民から反感を買っていたのでしょう。
地域にとけこまずに、周囲と何かしらのトラブルを起こしていて、そういう目で見られていたと。
つづき
特定の「ある人々」が、うさんくさいという感情がもたれるのは、村社会ゆえ仕方の無いことじゃ。
しかし、実際に「ある人々」がトラブルの元凶になったという証拠があるわけでもなく、
見事に速やかに弾圧を受けてしまうのは、驚嘆に値するものよのお。
まるで日本国民全体が何か大きな力に統率されたように、
一体感を感じるがごとく「ある人々」を弾圧するのじゃ。
それは、日常的な小さなところであっても、「イジメ」という現象として現れておる。
こうして考えると、「イジメ」というのは、一種の日本的な「文化」なのかも知れぬな。

かおる
「イジメは文化」ですか。 あまり、 同意したくないな〜。

つづき
多くの日本人は、気づいてはおらぬようじゃが、
「ある人々」を弾圧する現象は、とても簡単な法則で発現するのじゃ。

  • 「ある人々」は、普段から他人とちょっと変わった人と見られること。
  • 村社会が、特殊な状況下、非常事態に置かれること。
  • 「ある人々」が、間接、直接に関わらず、非常事態と関係したこと。

この様な場合、必ず、「非常事態の原因」は、「ある人々」にある、と直結して考えられてしまうのじゃな。
つまり、「ある人々」を排除するためにちょっとでも理由を与えられさえすれば、すぐさま理由は正当化され、
それをきっかけにして、理由の真偽を問わず、徹底排除、糾弾、追求に動くというものじゃ。
松本サリン事件の、冤罪を生んだマスコミの的外れな追求も、似たような現象なのであろう。
これを、わしは、村社会特有の病理、魔女狩りシンドロームと、呼ぶことにしよう。

かおる
でも、「火の無い所に煙は立たない」というように、
排除される側も、なんらかの原因を作っていたと言う事は言えるのでは?
それが、徹底排除、弾圧にまで結びつくほどの大きな原因だったかはともかく。

つづき
うむ。原因は小さなトラブルじゃったかも知れぬ。それが気がついた頃には、
すべての厄災の原因は、「ある人々」の責任だと、なすりつけられてしまうわけじゃな。
そこで、大きな役割を果たすのが「風説の流布」。 ようするに、デマというわけじゃ。
日本人というのは、このデマに、実によく乗りやすい。
乗りたくてウズウズしてるというか、乗る気まんまん、というか、
いや、デマだと気づいておったとしても、デマをさらに利用し、
それみたことか、と言わんばかりに、デマに飛びつき、
さあ、皆で一緒に糾弾しようぞ。 おー!」と、雄叫びを上げるわけじゃ。

かおる
そこまで日本人は、デマに踊らされやすいとは、思いませんけどね〜。

つづき
その裏には、日頃から、村社会の中で、周囲とはちょっと違う「ある人々」を目障りに思い、
できることなら、排除したいという、沸々たる思いがあったのじゃろう。
しかし、普段は、日本人的な礼儀正しさから、自制させていたのじゃろう。
それもまた、フラストレーションを貯めるものじゃったに違いない。
が、何かのきっかけを元に、一気に暴発するという現象が起きるわけじゃな。
皆で揃って攻撃することが、お互いに連帯感を生み、
単一民族としてアイディンティティを感じて、安心できるというわけじゃろう。
一方、「ちょっとまてよ、おかしいんじゃないの?」などと言う事は、人心を不安に落としいれるだけであり、
そのような忠告は、誰も聞く耳を持たず、かえって民衆を逆上させることにもなりかねぬ。
すべては、日本人の個人個人の持つアイディンティティの希薄さ、
誇りの持てなさ、精神的なゆとりの無さ、という部分に要因があろうと思うのじゃ。

かおる
そうですかね〜?

つづき
この日本人の習性を利用すれば、世論誘導など簡単なことじゃろう。
しかも、民衆が一方向に向けば、他のことは目に入らなくなるので、政治家にとっても都合がよい。
例えば、日本人が、外国人に誘拐されて、政府が面倒な交渉にあたることになったとしても、
誘拐された人物に、うさんくさい部分があるか身辺調査をし、あることないこと、マスコミにリークし、
自作自演、自業自得、自己責任じゃないの?と、うそぶけば、
救出に失敗したとしても、政府の責任も軽減されるというもの。

かおる
そんな、抽象的な四文字熟語の羅列を真に受けて、簡単に騙されるほど、
日本人は馬鹿ばっかりじゃないと思いますけどね?
つづき
もちろん、わしは馬鹿ではない。

かおる
自分ひとりだけ諦観して見てるみたいなこと言うと、反感買って排斥されますよ?

つづき
村社会の中で、反感を回避する術というのを、学ぶことも必要だと言うことじゃな。
そのための知恵を表した格言が、古くから残されておる。
かおる
どんな?

つづき
長い物には巻かれろ

かおる
そういう言葉があるということは、昔の人も、この手の問題には、苦労していたということでしょうね。

つづき
早い話が、多くの日本人は、長い物に巻かれて、つつましく生きてると感じておるのに、
突出した行動をとりなさんな、と言いたいのじゃな。「出るクイは打たれる」ともいうじゃろう。
かおる
最終的には、「要領が悪い」という所に行き着くのでしょうかね?

つづき
現代のように、マスコミやインターネット、携帯電話によって、瞬時に日本中の人間と、
意思疎通が出来るようになると、日本の村社会化は更に進むことになるのであろう。
あの人、ウザいよね〜などと評判が立てば、
うん、キモいよね〜と、一気に日本中に伝播し、
あたかも日本全体のコンセンサスであるかのように認知され、もはや信頼回復は不可能であろう。
誰も陰口を咎めたりは出来ぬ。 一度陰口を叩かれれば、村社会から排斥されるだけなのじゃ。
陰口は、村社会の情報共有手段であり、村社会を維持するための必要悪であると言えよう。
村社会の強固が、将来の日本をどのような姿に変えてゆくのかは、まだわからぬが、
行き過ぎは、不幸な結果しか招かぬであろうぞ。
個人の、信念と善意に基づく行動を批判し、
他人に迷惑をかけない責任を求める

という、国内世論を見ると、村社会、ここに極まれり、という思いがするのお。

かおる
マスコミに露出するときは、日本人の習性を考えながら、慎重に行動すべきということですね?
特に、村社会を嫌うタイプの、突出した個性的な行動を取りたがる人は。
つづき
それはつまり、村社会を嫌うタイプの、突出した個性的な行動を取りたがる人に、
自分らは嫌われておるから、個性を押さえよと自覚させることでもあるのじゃから。 不憫よのう。
かおる
ま、でも、首相の言葉を借りれば、みんな、深く考えて無いんじゃないですか?
自分の問題じゃありませんから。








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