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東西分断の歴史


Feb.12.2004





つづき
しかたない、前回までの日本語研究が、縄文時代まで遡れ無いのは認めようぞ。

かおる
そりゃ、そ〜ですよ。 あの三内丸山遺跡を残した人たちも、アイヌ系だと思うんですよね。
古代のアイヌ人の勢力範囲は、少なくとも東北まであったでしょう。
縄文系人骨が日本各地で発掘されてることから、縄文時代の原住民は、ほぼ単一だったと思いますね。
アイヌ語に「カムイ」という語句があることや、「神」が縄文系の文化だとすれば、
日本で古くから神を祭っていたのは、アイヌ人達ということになります。

約3000年前に、稲作民族の渡来で稲作が伝わり、言語も入り混じったでしょうが、
弥生系人骨などから、本格的な弥生人も、紀元前300年頃から流入したと言われていますので、
その頃に、本州の縄文系アイヌ人が北に追いやられながらも、文化なども交じり合っていったのではないでしょうか?
日本語も、その頃にまた大きな混成があって、現在の姿におちついたのだと思います。

つづき
いやいや、しかしそこで、縄文人とアイヌ人を同一と考えるのも早計じゃろう。
アイヌ人もまた、人種的にも言語的にも孤立しておると言われておるからのお。
奥州では、北海道のアイヌ民族との交流はあったじゃろうが、
北海道以北のアイヌ系民族と、本州の縄文人系民族は、文化的にも別種じゃったのではないか?
出雲に神が集合していた頃も、北海道から出張してきた神は、おらなんだように思うのじゃが。
その後、九州に稲作民族系が渡来し、本州の縄文民族と、融合したのじゃろう。

かおる
それ以前にも、本州に住んでた民族は、雑多な混血が進んでいたでしょうね。
DNA的にも、生粋の日本人特有の特徴というのはあまり見られないようです。
人種が流入してきたごとに、違う系統の言葉の語彙も混ざり合い増えていったでしょう。

今の日本語は、縄文系民族稲作民族弥生系民族の、
少なくとも、この3種の民族から、混成されているのではないでしょうか?
今のアイヌ語も、その後から北方に来たアルタイ語系民族の言語と混成されたかも知れませんし。

はたして、それらの言語をすべて分離して系統立てられるかどうかですが。
言語学者の間で、長く研究されてきているにも関わらず、それらは不明のままのようです。

つづき
う〜む。 そりゃ、まったく嘆かわしい! よし、では、わしが生涯をかけて解き明かしてやるぞよ!

かおる
いや、そんなことより、イラストでも描きませんか(苦笑)?

つづき
そのような、目先の享楽に目を奪われてはいかん!
今でも、世界では、争いが絶えぬ。 わしらに必要なことは、歴史から何を学ぶかじゃ。
かおる
たとえば?

つづき
悲しいことじゃが、変化に対応できぬも文化は、必ず滅びるということじゃな。
近代化に遅れた民族は、先進国の植民地となる運命じゃ。
戦争がおきれば、勝った側は、負けた側の民族・文化を蹂躙するじゃろう。
古き文化を保持してきた民族は、先進文化に対して勝てるはずもなく、滅びの運命をたどるのじゃ。
しかし、それは、民族の伝統を守るが故の、誇り在る死とも言えようぞ。

かおる
僕は、勝った側につきたいですね〜。
日本は、文化と誇りを、適当に捨てられたから、先進国の仲間入りが出来たんですよね。
つづき
ともかく、そのような歴史は、過去の日本でも起きたであろうということじゃな。
縄文文化と、弥生文化の抗争しかりじゃ。
かおる
でも、実は、縄文人と弥生人が争ったという痕跡は、あまり無いみたいですね?
縄文人どうしも、争っていた様子はありませんでした。
狩猟採集民族は、皆が平等で、争う必要がなかったと言われています。
弥生時代になり、稲作と食料の備蓄が、階級社会を生んで、そこからクニとクニの戦争が頻発したようですね。

つづき
縄文人が、稲作民族と始めて出会ったときは、素直に稲作文化を受け入れたのであろうな。
稲作を始めながらも、縄文文化を守ってきたのが、3000年〜2000年前の、後期縄文時代じゃろう。
そして、2000年前頃に、本格的な弥生時代になると、他のクニを領地にしようと、戦乱が起き始めたじゃろう。 
紀元300年頃に現れた大和朝廷も、そうした動きから台頭してきた、地方の一豪族に違いない。

武装し、戦争し、征服するという概念こそ、弥生人がもたらした先進文化なのじゃ。
一方、争いを好まなかった、縄文人は、誇り高く滅んでいったじゃろう。

かおる
縄文人達も、負けてはいなかったでしょうね。
やがて、エミシ(蝦夷)とよばれる、まつろわぬ人々が、大和政権の対抗勢力として現れたようです。
つづき
さて、そこで、今回のテーマであるのじゃ。
縄文系の末裔と言われるエミシの民族は、いつから、大和政権を敵とみなしたのじゃろうか?
縄文時代においては、交易は日本中で行われていたようじゃ。
北海道の礼文島船泊遺跡では、南洋の貝のアクセサリーや、糸魚川産のヒスイがみつかっておる。
黒曜石も、全国で発掘されておるし、土器のデザインも、全国的によく似ておる。
人の往来や、交易があったからじゃろう。
そのような交易は、稲作が伝来した後期縄文時代から、弥生時代初頭まで続いていたじゃろう。
言葉もすでに、共通語を話していたはずじゃ。

かおる
少なくとも、4世紀頃までは、北陸のコハクやヒスイの工芸品が畿内に持ち込まれていたみたいです。
奈良県曽我遺跡からの出土品を見ると、5世紀頃は、畿内にも工房が作られ、
北陸のコハクやヒスイを原材料として、工芸品を造る「玉つくり」が行われていたことがわかっています。

6世紀になると、「玉つくり」は、畿内から出雲へ移り、7世紀には、「玉つくり」は終了してしまいます。
「玉つくり」といっても、紀元前後頃は、ガラス玉や、鉄器や、銅鐸や、銅鏡や、といったものが、
珍重されるようになっていたので、すでに、それほど貴重品では無かったのでしょうね。
ヒスイの工芸品というのも、失われた縄文系の文化ということでしょう。

鉄器は、紀元前400年頃に伝わり、紀元前100年頃に、「刀剣」などの鉄製の武器が作られています。
銅鏡」も、古くは稲作民族が、太陽信仰とともに大陸から伝えたものではないでしょうか?
日本には青銅器時代というものは無く、弥生時代終わりには、鉄器は、東北にまで広がりました。
銅鐸」は、紀元前200年前から、近畿で盛んに作られるようになりました。
稲作の豊穣を祈願する、弥生人の祭器用だと言われています。

つづき
銅鐸というのも、不思議なものじゃ。
祭器用じゃとして、なぜ、神社で祭るものとして、現在まで伝わらなかったのかのお?
かおる
さあ、いつのまにか、銅鐸を祭る習慣は消えたようですね? 弥生時代とともに、姿を消しています。
そのかわり、「カネ」という言葉だけは、残ったみたいですけど。
つづき
大和朝廷の権力の象徴と言われる「三種の神器」が、「玉・鏡・剣」であるのは、
すなわち、縄文系民族稲作民族弥生系民族が、それぞれ崇めていたものではなかろうか?
八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)」「八咫鏡(ヤタノカガミ)」「草薙の剣(クサナギノツルギ)」という、
これらのアイテムを、大和朝廷が神宝として祭るのは、
日本に流入していた、3種の民族を束ねて、大和政権が興ったという証なのではないじゃろうか?

かおる
ふむふむ。 だとすると、「銅鐸」はどこへ消えたのでしょうか?

つづき
そこじゃよ! かおる君! わしが日本史にミステリーを感じておるのは、
まさしく、そこの一点じゃ! その謎が解けねば、日本の歴史を解明したとは言えぬぞ!
かおる
師匠は、何かに気づいているんですか?

つづき
では、言おう。
ぅおっほん。

「銅鐸」は、滅ぼされた民族の文化だったのじゃ。
その民族こそ、古代エミシ王朝じゃった!


かおる
ほほぉ?

つづき
かつて、銅鐸は、近畿を中心に、北陸まで広がった文化であった。
しかし、九州ではほとんど見つかることがなく、
近年に、吉野ヶ里遺跡でやっと見つかったという程度でしかないのじゃ。
すなわち、銅鐸とは、弥生系の文化では無く、稲作が伝わった後期縄文系の文化と言えるものなのじゃな。
大和朝廷が、銅鐸文化を受け継がなかったことからも、古墳時代になって、銅鐸が作られなくなることからも、
大和政権の発祥が、近畿ではないということを物語る。

かつて近畿に興ったのは、エミシ王朝であり、
大和政権の東征とともに、滅ぼされたのじゃ。


かおる
いや、そんなに、大きな字で書かなくても読めますから。

つづき
近畿に興った、縄文系エミシ王朝は、銅鐸を崇める、平和を愛する民族じゃった。
銅剣・銅矛も、実戦用ではなく、部下への勲章・シンボルとして授けられたに違いない。
そこへ、実戦に長け、鉄剣を携えた九州・ヤマトの連合軍が攻め入ったというわけじゃな。
時は、西暦300年頃じゃったろう。
エミシの王は、なすすべもなく、ヤマトに屈服し、銅鐸の生産を止めたのじゃ。
近畿に栄えていた、エミシ王国は、東西に分割され、
エミシの王族は、西の出雲へと逃れ、東は諏訪奥州へと散っていったのじゃろう。
かつて、近畿にあったヒスイ工房が、出雲に移り、やがて消滅したのも、
縄文系のエミシ王朝文化のなごりじゃったろうて。

こうして、エミシ王朝は、東西に分断されたのじゃ。

かおる
それが、出雲国譲り神話の真相だったと、考えているわけですね?

つづき
それでも、はじめは、エミシの民も、大和政権によく仕えたことじゃろう。
巨大な古墳群が作られたのも、それなりの労働力が無くては無理であったろう。
かおる
古墳群の規模が小さくなっていったのは、
エミシの民が、大和政権から、徐々に離れていったと考えられますね。
つづき
大和朝廷は、東北のエミシから、利権を吸い取るだけじゃったろう。
エミシ王朝の中心部が壊滅したとはいえ、地方は、屈することなく反旗を翻すのは、無理からぬことじゃ。
かおる
出雲風土記も、大和朝廷の検閲が入っていますから、内容は穏やかですけど、
本当の歴史は、もっと生々しかったのかも。
つづき
今となっては、想像をたくましくするしかないがのう。
古代の時代に、歴史の影に消えていった人々に、わしは敬意を持ちたいのじゃ。
かおる
真相はどうあれ、まつろわぬ民、エミシの民族は、
滅びの道を歩みながらも、誇りある人達だったと思います。







付録・年表




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