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超古代史古文書大全


Jan.31.2004





つづき
日本に伝わる古文書の中には、古事記、日本書紀とは相容れぬ古史古伝がある。
たとえば、以下のような超古代文書じゃな。 これ以外にもいろいろあるようじゃが、とりあえず。



かおる
いまさらネタにするのも、口はばったいものばかりですね。

つづき
そこをあえて、スポットライトを当ててみようというのが、今回の試みじゃな。

かおる
やっぱり、やめましょう。 後が続きませんよ。

つづき
そんなに嫌わなくてもいいじゃん。 いけず。

かおる
だ〜か〜ら〜、ご自分のキャラくらい守ってくださいね。

つづき
わしが言いたいのは、なぜ、そのように目くじらを立てて否定したがるのか?
ということじゃな。
かおる
はぁ?

つづき
ぶっちゃけ、このような古文書は、半分以上、いやほとんどは作り話じゃろう。
ウガヤフキアエズ王朝の73代天皇名や在位期間を一人ずつ検証するなど、意味の無いことと思う。
しかし、それは、古事記や日本書紀でも同じことがいえるはずじゃ。
古代において、確実に実在したと言われる、ヒミコなる女王すらも、
古事記や日本書紀には記載されておらぬ。
かわりに、アマテラスなど、それらしい神様の名前はいっぱい出てきておるが、
アマテラスが魏に朝貢したなどという記載もない。
後の宋の時代には、倭の五王とよばれる讃、珍、済、興、武が朝貢したと言われるが、
そのような記録も残されていない。
ましてや、天皇一族が、天から降りてきた神の末裔などと、いったいどうして信じられよう。
古事記を編纂した稗田阿礼・太安万侶は、大和朝廷を賛美するのが仕事のようなものじゃったろう。

かおる
それは、そうですね。
武については、雄略天皇ではないか? と言われていますが、
雄略天皇の別名「大泊瀬幼武」の一文字が一致したことを論拠にしてるだけにすぎません。
そういったわけで、大和政権とは別の、九州王朝説とか、いろいろ言われているわけですが。
なんかも〜、そろそろ飽きてきたかな、みたいな。

つづき
そのように、時流に流されたり、偽書だなんだと攻撃する研究者は多い。
一方で、古事記、日本書紀、魏志倭人伝の記載は、すべて正しいものと、
一字一句間違いなく読み取ろうとする者に対しては、攻撃されることはほとんどない。
そのような研究姿勢は、何十年前から何も変わっておらぬというのが、
わしとしては苛立たしいのであるのじゃ。

かおる
どっちもどっちだな〜、というのはありますね。
古事記、日本書紀を専門に何十年も研究してきた人にとっては、
人生をかけた大問題なわけですから、在野のトンデモを徹底否定したい気持ちはわかりますけどね。
もうすこし、柔軟な頭で考えてもらえると、また新たな発見があるかも知れないわけですし。
客観的に考えても、「倭の五王は、大和朝廷と結びつき難い」と思うほうが自然だとは思いますよ。
もし、倭の五王が大和朝廷と同一なら、記紀の内容が出鱈目ということになります。
なぜ朝廷の歴史を改竄する必要があったのか?

つづき
そういったわけで、あらゆる古文書については先入観を捨て、
均等の距離を置き、科学的な事実とつきあわせつつ、
古代社会の成り立ちを解明していくことが必要なのではないかと思うわけじゃな。
どんなに、創作性あふれる文書であっても、その文書を書いた人物の、
その時代背景に基づく思想が、反映されているはずじゃ。
神武天皇以前に、ウガヤフキアエズ王朝など、あるわけがないとしても、
「ウガヤフキアエズ」という語彙は、どこから湧いてきたのか?
明治時代くらいの同人小説にその名が出てきたとしたら、それもまた面白かろう。

かおる
頭ごなしに偽書ときめつけ、ゴミ箱にポイするよりも、
何か別の意味で発見があれば、面白いネタになる、ということですね。
つづき
うむ、その通り。
奈良時代の8世紀に、朝廷は、「古事記・日本書紀」に加えて、各地に「風土記」編纂を命じた。
が、おそらく、朝廷の意にそぐわないという理由で、焚書されてしまった文書も数多くあったであろう。
それら、失われた文献が残されておれば、また違った姿の日本史像が見えてきたことじゃろうて。

かおる
焚書といえば、桓武天皇が行った、桓武焚書(神皇正統記)が有名ですね。
「古来、日本は三韓と同じ系統だったが、桓武天皇の頃にそれらの史料は焼き捨てられた」という。
桓武天皇は、何を隠したかったのか、気になるところですね。

つづき
何かを隠したとしたら、それは何かな?
三韓と同じ系統だった王朝が、かつての日本に存在していたのじゃろうか?
かおる
そんな王朝が日本にあったんですかねえ?
邪馬台国が? 九州王朝が? それとも、大和朝廷自身が?
この前の天皇のゆかり発言、「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、
続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と、関係あるのかなあ?
その武寧王は、461年、日本の加唐島で生まれてて、今は佐賀県の観光名所になってるわけですが。

つづき
結論は急ぐまい。 資料を調べていけば、おのずと答えは見えてこよう。
わしらは、焚書などすることなく、日本の歴史を再認識して行こうではないか。
かおる
ひとつだけ言える事は、僕らは「日本語を話している」ということですね。

つづき
そう、そして、日本独自の自然崇拝「神道」を守り抜いてきた。 この意味は大きいぞよ。

かおる
でも、神道は皇室の宗教ですよね? 天皇は、日本の神々の子孫ということになってるし。
大和朝廷が日本を統一したなら、神道が広まっていて当然では?
つづき
さあ、それはどうかの?
古代から伝承されてきた神道の神の系譜に、後の大和朝廷が乗っかっただけかもしれぬ。
かおる
そうですかねえ?

つづき
そもそも、日本古来の神というものは、人の姿であった方が珍しい。
諏訪大社の御柱祭などは、7年に一度、森から巨木を切り出し、
神社の4隅に立てるという奇祭で、由来がまったくわからないことから、
日本最古の神道の祭りを今に伝えて言われておるが、神を数えるときに、ひと柱、ふた柱、と「柱」で数えたり、
「神柱」という言葉や、近年では家を支える木を「大黒柱」と呼ぶように、柱は大切なものじゃった。
古代の人々の、木を崇める、巨木信仰が神道の起源であろうと思われるのじゃ。
人の姿の神が主役となる神話は、その時代の首領が、自分と神とを同一視するようになった過程で、
生まれてきたものであり、記紀神話は、大和政権誕生以前の神々の系譜に、
現政権の権力者の系譜を重ねただけだったのではなかろうか?
その神道の起源は、太古に日本列島に暮らしていた縄文民族のアニミズムに由来するものじゃと思われる。
巨木を立てる習慣も技術も、5000年前にはすでにあったのじゃから。

かおる
古事記、日本書紀の神話は、古代の神道とは無関係で、既存の説話を寄せ集めたり、
編纂者が思いついた、まったくの創作だったとも考えられますね? ようするに偽書。
720年頃に、日本書紀が書かれたのは、唐に対して日本国のあらましを伝える政治的な意図を含んでいました。
たった50年前に、白村江の戦いで、唐・新羅連合軍に敗れたばかりですから、
もし、百済と日本が特別に密接な関係だったとしたら、対外的に知られるのはまずかったでしょう。
唐を牽制するため、日本の歴史の長さと独立性と日本を統治する皇族の権威を訴えたかった。
天孫降臨した地が、大陸との関係から離れた高千穂の地というのも意図的なものかも。
実際に祖先が上陸した土地かも知れませんが。

つづき
天皇家の「万世一家」についても誇大広告としか思えないわけじゃが、
近代の皇国史観・皇民化政策に反発する風潮の中で、超古代王朝説がもてはやされたように、
過去のある時期においても、大和朝廷とは別系統の王族の存在を伝えとうとする動きがあったやも知れぬ。
そのような流れで、超古代文書は生まれたのであろう。
ただ、その記事の元になるような伝承のいくつかは実際に存在したやも知れぬ。
もしも原本が戦前のものであれば、非常に興味深いものではあるな。

かおる
南北朝時代や、戦国の混乱期も、超古代文書を生んだひとつの契機かも。
江戸の太平では、徳川幕府は神道よりも仏教で国を治めていたわけですが、
神道の復古が叫ばれたり、国学が盛んになった時期に、記紀の内容の見直しを考えた学者がいて、
日本各地の伝承を集めて、超古代文書がまとめられた可能性はありえますね。

つづき
しかしながら、天皇家が、1000年以上にわたり、大祭主として神道を継承してきた功績は大きい。
その点は、誉れとして良いのではないかな。
かおる
というフォローが入ったところで、今日は、ここまで!











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