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物部氏は豚肉がお好き?


Jan.30.2004





つづき
物部氏は、豚肉がお好き?

かおる
また、何の根拠も無いことを……。

つづき
いや、もしかしたらと、思っちゃって。

かおる
キャラが変ですよ〜!
それはともかく、日本で養豚がはじまったのは、明治になってからなんです。
中ヨークシャー、バークシャー等の中型ラードタイプ品種がイギリスなどから輸入され、
昭和40年頃になって、大ヨークシャー、ランドレースという大型ベーコンタイプ品種や、
ハンプシャー、デュロック等、ミートタイプ品種が輸入されることによって、
本格的な食肉用養豚が広まりました。

つづき
日本でも、縄文時代頃に、イノシシの骨がみつかっておるぞ。
骨の形から、野生のものというより、家畜化された痕跡が見つかったそうじゃ。
かおる
イノシシは、埴輪でも多く出土してますから、
身近な動物として飼われていた可能性はあるかも。
つづき
中国大陸や、大陸の影響のあった沖縄では、ずっと古くから豚が飼われていおった。
「魏志倭人伝」には、「牛、馬、虎、豹、羊、鵠は、居ない」と記述があるが、
「豚」は飼われていたと考えられる。 もっとも、今の豚よりは原始的な品種であったろうがな。

かおる
日本で豚が飼われていたとしても、いつの頃からか、廃れてしまったようですね?

つづき
それが、いつの頃か? はたまた、どうして廃れたか? が、問題じゃ。
食に関する習慣が、大きく変わった時期があったのじゃろうか?
かおる
そんな、大げさな。 山のほうの猟師は、ずっと猪を獲ってたと思いますよ?
縄文時代からの食生活のなごりだと思いますけど。
つづき
いや、いや。 日本でも食生活を変えるほどの、劇的な変化を遂げた時代があったのじゃぞ。

かおる
へぇ? 何が原因で?

つづき
仏教の伝来じゃ。

かおる
は〜。 なるほど。

つづき
仏教の教えでは、動物が自分のご先祖様かもしれないということから殺生を禁じておる。
肉を食べると、来世で畜生に生まれ変わるなどとも、信じられてもいた。
かおる
そのわりに、チベット人は肉をよく食べていたみたいですけど。

つづき
話のこしを折るでない。 ともかく、仏教が浸透したおかげで、
日本では豚が飼われなくなったのではないか? というわけじゃな。
時代は、538年、百済の聖明王が仏教を伝えたとある。
そして崇仏派の蘇我氏、廃仏派の物部氏の抗争が始まるわけじゃ。

かおる
一種の宗教戦争ですね。 蘇我氏は渡来人の進歩的な考えを受け入れ、
物部氏は、古来からの神道を守ろうとしていた。 お互いの利権も絡んでいたことでしょう。
けれども、587年、ついに蘇我馬子が物部氏を滅ぼし、
聖徳太子が、仏教を受け入れ、法隆寺をたてるわけですね。
当時の仏像「弥勒菩薩半跏思惟像」の指の形が、「三位一体」を表していることから、
景教の影響も受けていたらしいという説もありますが、
ようするに、新しい文化を、ごちゃまぜに受け入れたということだと思います。
景教系の派閥とも、うまく折り合いをつけようとしたのかも知れません。
日本人らしいですね。

つづき
渡来系の氏族が連合して、物部氏を滅ぼした、とも考えられるわけじゃな。
しかし、この頃の朝廷は、日本古来からの神道にはまるで関心が無かったように見えるな。
かおる
その物部氏を滅ぼした蘇我氏も、645年の大化の改新で、
中大兄皇子・中臣鎌足派に滅ぼされてしまいます。
つづき
神道派が、勢力を盛り返したのじゃろうて。
その後、仏教と神道を併用することで、日本の内政は丸く収まったようじゃな。
当時、仏教を信奉していた渡来人が、多く日本に入植してきたにも関わらず、
神社が廃れるどころか、高麗神社のように、渡来人を神道で祭ることも多いということから、
神道の影響力は、民間にも根強いものがあったのじゃろう。
敵を神社に祭ることもあったわけじゃが、祟りを恐れると同時に敵対勢力を封印する役割もあったかも知れぬ。
日本が、容易に渡来人に征服されなかった所以じゃろう。

かおる
でも、仏教の影響からか、豚が飼われることは、もう無くなったみたいですね。
やっぱり、当時の渡来人が、豚を食べなかったということでしょう。
焼き物や、その他の渡来系の文化は発展したのに。

つづき
豚は、朝廷内の高級食材だったのじゃろう。 もともと民間に広まってはいなかったのであろうな。
朝廷内の養豚業者が、物部氏と共に滅んだことで、養豚業は途絶えてしまったのじゃろう。
かおる
またまた〜、朝廷内に養豚業者なんていたんですか〜?

つづき
「猪甘部」という猪を飼っていた一族がいたようじゃな。
「猪」とはは、日本古来の家畜化された猪、つまり「豚」であろうと考えられる。
かおる
「猪甘部」かあ、「物部」とは、「部」つながりですね。
でも、「部」自体は、職業を表す姓(かばね)だろうから、家系的な繋がりはなさそうですね。
物部氏は、政権の最高位「大連(おおむらじ)」の称号を与えられていたことから、
古代からの、大権力者の豪族の末裔だったかも知れません。
「物」と言えば、国津神系に「オオモノヌシノミコト」という神も、いらっしゃいますが。

つづき
考えてみれば、「モノ」が何を意味するのか不思議ではないか?
「オオクニヌシ」が、「国の主」なら、「物の主」とはなんじゃろう?
かおる
「モノ」というのは、昔は、漠然とした捉えどころの無い、言葉で言い表せないモノの意味だったらしいです。
自然界の畏怖の象徴だったのではないでしょうか? 「モノノケ」と言えば悪霊みたいな。
つづき
もうひとつ、「モノ」は、「者」という人や動物の意味もあろう。
「大勢の人間を従えた首領」という意味だったかも知れぬて。
かおる
物部氏は「もののふ」と言われる武士でもあり「鬼」と恐れられていたと言われてますね。
武装集団の長だったことは有り得ますね。
つづき
「オオモノヌシノミコト」を祭る大神神社・三輪明神は、日本最古級の神社と言われておる。
あるいは、物部氏も、そうした神に並び称される古い豪族の末裔じゃったかも知れぬな。
神社とはつまり、古代の豪族の行政官庁だったのではないじゃろうか?
蘇我氏にやぶれた廃仏派の物部氏は、そうした古代の利権構造を守りたかったのかも知れぬ。
物部氏とは、古代縄文人の武装狩猟集団の血が濃く受け継がれていた部族の末裔やもしれぬな。

かおる
政権争いは、以前から続いていて、天津神系と国津神系との間の「国譲り神話」となったのかも。
表向きは、ただの神話として否定されてますけどね。
つづき
土着の出雲政権が、新興勢力の大和政権に地位を渡したと想像できるな。
その後で、物部氏と、蘇我氏と内部抗争がおきたわけじゃが、
はたして、物部氏は、出雲と何らかの繋がりがあったのじゃろうか?
出雲大社のそばに物部神社が祭られたのは何故か?

かおる
出雲と、物部氏との関係を指摘する説もありますが、
確かなことは、よくわかりませんね〜。 
つづき
縄文人の言葉のなごりと言われる、東北のズーズー弁が、出雲に残されているのも興味深いところじゃ。
大和政権は、東征するごとに、物部族、出雲族という縄文系の豪族を、取り込んでいったことじゃろう。
かおる
出雲は、かろうじて滅ぼされずにすんだみたいですね。 どうしてだろう?
縄文系部族の居留地として利用されたのかも?
つづき
古来、日本には神道が根強くあり、日本全国の縄文系部族が、神道の元に連合していたのではないか?
その総本山が出雲大社にあったのじゃ。
かおる
新興勢力大和政権は、神道を庇護することで、地方の部族に、政権の正統性を示しそうとしたのかも。

つづき
しかし、蘇我氏は仏教に帰依したことで、神道が無くとも日本統一が可能だと考えたに違いない。
物部氏は、神道なくして、地方の縄文系部族を抑えることはできないと主張し、対立が起きた。
疫病が流行り、物部氏が滅び、蘇我氏が滅ぶと、祟りを恐れた朝廷は、本気で神道を祭り、
地方の部族を抑えることで、越の国に勢力を伸ばすことができたのじゃろう。

かおる
でも、所詮、大和朝廷は侵略者、陸奥の部族は、その後も簡単に屈服はしなかったみたいですね。

つづき
あまり、話が長くなってもアレじゃから、このへんでよしておくが、
なんにせよ、古来から豚を飼う習慣を持っていた一族、猪甘部と、既得権益を守ろうとした物部氏は、
当時の渡来系ではない、日本土着民族、縄文人の直系の末裔ということは言えるじゃろう。
つまり、物部氏は、豚を食していたと考えられるわけじゃな。

かおる
「好き」だったかどうかまでは、わかんないじゃないですか〜?

つづき
いいじゃん。







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