『後悔先に立たず』
作:毒々鰻
1、
「初恋は、実らない」
こんな事、いったい誰が最初に言ったのだろう……。
それが事実だとしたら、答えられる奴に聞いてみたい。
「失恋の痛み、しかも人生初のそれから、どうやって立ち直りましたか」
ってね。
初めて会った、あの日……。
艶やかな長い黒髪をした彼女は、澄みきった円らな瞳に柔らかな光を宿して、言ったんだ。
「こんにちは、歩くん」
いたってフォーマルなスーツ姿なのに、俺の目には、うららかな午後の日差しを纏っているように見えた。
俺はきっと、バカみたいにポカンとして、彼女の顔を眺めていたはずだ。或いは、豆鉄砲を喰らった鳩みたいに……。
「……? ……?」
暫く無言のままでいた俺に、彼女は小首を傾げて見せた。
まったく……。警戒感って言葉が馬鹿馬鹿しくなるくらい、無垢な仕草。
「こんにちは……」
やっとのことで返事を搾り出した俺は、その時になって、彼女の傍らに、嫌と言うくらい良く知っている人物を発見した。
「あ……、兄貴、お帰り……」
恥の上塗り。
トンチンカンも極めつけの台詞を、俺は口にしていた。
そもそも兄貴に呼ばれて、俺は玄関を開けたのに……。
暫く兄貴と紅茶を楽しんで、その女の人は帰っていった。
彼女の名は、“まどか”と言った
兄貴も、まどかさんも、本当は俺を会話に加えたかったらしいのだが、何となく気まずくて、俺はキッチンに逃げ込み、晩飯の仕込みをするフリをしていた。
「歩……まどかについてだが……どう思った?」
空になったティーカップを片付ける俺に、兄貴は訊ねたものだ。
何をやらせても超一流の才能を発揮して、いつも自信に満ちて行動する兄貴らしくもなく、俺から微妙に視線を逸らせていた。
「あっ……。やっぱり……、そういうことなんだ……。いいんじゃない? 似合うと思うよ……、兄貴とまどかさん」
柄にもなく。まったく柄にもなく、兄貴はちょっと赤くなっていた。
「お前が、察しの良い弟で助かる」
「別に……。ところで兄貴。まどかさんと何処で知り合ったんだい。張り込みの最中か何か?」
「いや、同僚でな」
兄貴の短い応えに、俺は驚かされた。
兄貴の同僚なら、まどかさんも、警視庁の刑事ということになるからだった。
とても、そういう仕事の女性には見えなかった。
身のこなしや雰囲気から、小学校の先生かもしれないと思っていたんだ。
少し、自己紹介をする必要があるかもしれない。
しかし、俺の事なんて、いくら言ってもしょうがない。誰も、知りたいなんて思わないだろうしな。
俺は、鳴海清隆の弟で、鳴海歩という。
これで、全てだ。
で、わが偉大なる兄貴、鳴海清隆についてだが……。
ふぅ、どう言ったものかな。
兄貴は、小さな頃から、天才と言われ続けていたそうだ。
スポーツ万能、学業優秀。
数ヶ国語を自在に使いこなし、幾種かのスポーツでは、プロになることを薦められたのも一再ではなかった。
苦手な分野と言うものが存在しない、何をやらせても完璧な存在。
有り余る才能の中、何と言っても特筆すべきなのは、ピアニストとしての才能だろう。日本音楽界のホープとして脚光を浴び、名前は忘れてしまったが、ずいぶんと偉そうな先生達が、熱心に留学を薦めていた。
近い将来、兄貴が栄光を、薔薇色の未来を掴むであろう事を、俺を含めた誰もが予想していた。
それにも関わらず、兄貴が選んだのは、刑事と言う生き方。
華麗で華々しい未来が約束されていたはずなのに、地味で危険と隣り合わせの仕事を、兄貴が何故に選択したのか誰にも判らない。警察と言う組織に入るにしても、兄貴ならキャリアになる事だって簡単だったろうに……。
しかしながら、またしても兄貴は、瞬く間に才能を発揮し、警視庁で「神の頭脳」とまで謳われた。
謳われた……。
そう……過去形だ。
兄貴との結婚式を挙げるまでの間、まどかさんは、数回うちに来た。
仕事が仕事だけに、時間にゆとりは無かったはずなのだが、式後の生活のために予行演習をしていたのだろう。
俺は、まだ中学生だったし、兄貴以外に親類もいない以上、三人一緒に暮らさざるを得なかったからだ。
まどかさんが来る度に、我が家の雰囲気が明るくなっていったのを、今もはっきりと覚えている……。
その頃の俺は、まどかさんの笑顔を見るたびに、なんだか気分がふわふわした。熱も無いのに、ひどく鼓動が速くなった。コノヒトノ笑顔ヲモット見タイと、馬鹿みたいに願った。
そして……、まどかさんは兄貴の嫁さんになる事を思い出すたびに……、無理矢理に鉛を飲まされたように、俺の身体は重くなり、眩暈を覚えた……。
馬鹿みたいだった。
本当に……、本当に馬鹿そのものだった。
幸い、二人が式を挙げた時には、俺の問題は、俺自信の中だけに収まる落ち着きを示していた。
この頃から俺は、まどかさんを、「姉さん」と呼ぶようになっていた。
それで当然なのだから。
また、まどかさんと言いそうになるたびに、俺は内心で、姉さんの欠点を論う事にしていた。
「最初は、猫を被っていただけじゃないか。自分はウルトラ家事オンチのくせに、料理への注文はやたらと厳しいじゃないか」
とか……。
尤も、そうすることで、姉さんが身に纏う、柔らかな日差しのような雰囲気まで否定し得るものではないが……。
兄貴夫婦プラス俺という三人で、新しい生活を始めた時には、俺は、もう何の問題も無いし、将来問題が起きることも無いと思っていた。
それなのに……。
わが敬愛する兄貴が問題を起こした。極め付きの大問題を……。
「俺は、ブレード・チルドレンの謎を追う。歩……、まどかを頼む」
意味不明の言葉を残し、清隆兄貴は失踪しやがった。
何を考えてるんだ! 愛する新妻を放ったらかしにして……。
兄貴……良いんだな……。この俺に、姉さんのこと頼んだりして……。
本当に良いんだな!
……NEXT