魏志倭人伝の記述 三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人 |
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西暦280年頃、西晋の時代に陳寿が記した三国志の中に見られる記述では、 古代に日本には、卑弥呼を女王とする、「邪馬壹國」というクニがあったとされる。 その女王・卑弥呼は、西暦247〜248年頃に没している。 |
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妄想度レベル1 | |
おおむね、歴史書の一部として、 客観的資料としても信用できる。 (0ポイント) | 陳寿の又聞きと作り話。 誤字も多く、内容はマユツバ。 (1ポイント) |
「邪馬壹國」の読み方は? 三国志魏書巻三十烏丸鮮卑東夷伝倭人 |
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倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國 従郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里 始度一海 千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險、多深林、道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乘船南北市糴 又南渡一海 千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴 又渡一海 千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之 東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統属女王國 郡使往来常所駐 東南 至奴國 百里 官曰[シ]馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 南 至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸 南 至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳[テ] 可七萬餘戸 |
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妄想度レベル2 | |
邪馬台国の漢字は「邪馬壹」なので、 「ヤマイチ・ヤマイ」が本当の国の名ではないのか? (0ポイント) | 卑弥呼の国が、後の大和朝廷に発展したはず。 だから、「ヤマト」に近い呼び名だったはずだ。 (2ポイント) |
隋書の記述では? 隋書 巻八十一 東夷伝 倭国 |
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倭國在百濟新羅東南水陸三千里 於大海之中依山島而居 魏時譯通中國三十餘國皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會稽之東與耳相近 倭國は百濟・新羅の東南に在り、水陸三千里。大海の中に於いて山島に依りて居す。 魏の時、譯の中國に通ずるもの三十餘國。 皆、自ら王を稱す。 夷人は里數を知らず、但だ日を以って計る。 其の國境は東西五月行、南北三月行、各々海に至る。 其の地勢は東に高く西に下る。 邪靡堆に都す。 則ち魏志の所謂る邪馬臺なる者也。 古に云う、樂浪郡境及び帯方郡を去ること一萬二千里。 會稽の東に在りて、耳に相い近し。 |
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妄想度レベル3 | |
「邪馬壹」「邪馬臺」は、「大和(ヤマト)」とは発音が違う。 大和朝廷とは無関係のクニだ。 (0ポイント) |
ヤマタイ国は、大和朝廷のことだ。 倭人伝の「邪馬壹」は、「邪馬臺」の誤りだ。 「邪靡堆(ヤマタイ)」が正しい発音だ。 (3ポイント) |
便宜上「ヤマタイ国」と呼ぶとして、 「ヤマタイ国」って何なの? |
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ヤマタイ国は、269年、魏に朝貢し、「親魏倭王」印を賜り、 日本の支配者と認められている。 日本を統治する大和朝廷(天皇家)の歴史は、紀元前660年から続く(?)。 |
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妄想度レベル4 | |
ヤマタイ国は、魏と関係を持つほどの強国だが、 大和朝廷との関係は不明。 (0ポイント) | ヤマタイ国は、魏と関係を持つほどの強国なので、 大和朝廷の歴史の一部に間違いない。 (4ポイント) |
ヤマタイ国はどこにあったの? | |
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自郡至女王國萬二千餘里(魏志倭人伝) 古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里(隋書) 帯方郡・楽浪郡より七千餘里で狗邪韓國 千餘里 對馬國 (対馬国) 千餘里 一大國 (壱岐国) 千餘里 末盧國 (唐津市?) 陸行五百里 伊都國 (糸島郡?) 郡使往来常所駐 東南百里 奴國 東行百里 不彌國 南 投馬國 水行二十日 南 邪馬台国 水行十日 陸行一月 ようするに、朝鮮半島より東南大海中の島に、 女王の都邪馬壹國があった。 距離単位について「短里説」「長里説」などがあるが、 地図上からは、1里=約80mほどと読み取れる。 帯方郡から、邪馬台国は12000里。 伊都國まで、10500里。 残り1500里。 多く見積もっても、海岸から南へ150km圏内。 よって、ヤマタイ国=九州の中央部あたりになる。 |
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妄想度レベル5 | |
帯方郡から倭国上陸まで1万里を要するので、 「1万2千里」なら、九州内でしかありえない。 だから、ヤマタイ国は九州にあった。 そもそも他国の様子は軍事資料であるので、 正確さを求められるもの。 (0ポイント) | 「1万2千里」は、西の大月氏国に合わせた、 デタラメな距離ではないか? だから、ヤマタイ国は、畿内にあった。 魏志倭人伝は嘘っぱち。 (5ポイント) |
ヤマタイ国はどの方角にあったの? | |
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倭人在帶方東南大海之中(魏志倭人伝) 南至邪馬壹國 女王之所都(魏志倭人伝) 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王(魏志倭人伝) 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種(魏志倭人伝) 倭國在百濟新羅東南水陸三千里(隋書) |
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妄想度レベル6 | |
朝鮮半島より、海を渡り東南の倭国がある。 そこから南に至る場所にヤマタイ国がある。 さらに南に狗奴國がある。 東の海を千里渡ると、また倭人の国がある。 百済・新羅から東南3千里方向にある これは、九州の地勢と一致する。 (0ポイント) | ヤマタイ国は、南の方と倭人伝にあるが、 方角は「南」と「東」を間違えている。 それも、何度も間違えてる。 だから、ヤマタイ国は、畿内にある。 (6ポイント) |
「水行十日 陸行一月」って? | |
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南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月(魏志倭人伝) 使者が来訪したときに常駐する伊都國からの、ヤマタイ国に至るまでの行程と思われる。 しかし、そのまま解釈すると、日本列島を飛び出してしまう。 具体的な里数で表されていないため、倭人からの大雑把な伝聞であろうと思われる。 古代の倭人は、距離を日程で測っていたのである。 その証拠に、隋書には、次のようにある。 夷人不知里數但計以日(隋書) |
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妄想度レベル7 | |
船で行けば、だいたい十日。 歩いていけば、およそ一ヶ月の意味。 丸木船で行ったり、道が整備されてなければ、 時間はかかるだろう。 倭人の大雑把な距離感覚を、 魏の使者がそのまま受け取ったものだろう。 (0ポイント) | ヤマタイ国は、南の方と倭人伝にあるが、 方角は「南」と「東」を間違えている。 船で十日進み、上陸した後、徒歩で畿内へ。 「一月」は、「一日」の誤り。 ヤマタイ国は畿内にある。 (7ポイント) |
ヤマタイ国を特定する物的証拠は? | |
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魏から送られた金印は発見されていない。 卑弥呼の墓は、まだ、確かめられていない。 箸墓古墳が卑弥呼の墓と言われるが、発掘調査での裏づけはないようだ。 卑弥呼の鏡と言われる「三角縁神獣鏡」が畿内で多く発掘される。 |
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妄想度レベル8 | |
「三角縁神獣鏡」は、日本製ではないか? 呉の職人が日本で作成したものだろう。 中国では一枚も見つかっておらず、 様式も呉のデザインに近い。 実際にありえない年号の鏡もある。 (0ポイント) | 卑弥呼のために、「特注」したものだ。 まず、魏から受け取ったオリジナルの鏡があり、 その他の多くはコピーかもしれない。 (8ポイント) |
卑弥呼を継いだ、「壹與」の名前は? | |
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卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人 更立男王 國中不服 更相誅殺、當時殺千餘人 復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王 國中遂定 政等以檄告喩壹與 (魏志倭人伝) 卑弥呼の死後 男王を立てたが、不服として国が乱れ殺し合いが起きたので、 卑弥呼の宗女である壹与(十三歳)を王として立てた。 国はようやく治まった。 (魏の使者)張政らは、檄文をもって、壹与をさとした。 |
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妄想度レベル9 | |
「壹與」は、そのまま、イチヨ・イヨと読むべき。 仮に、「邪馬壹」が、「邪馬臺」の誤りだとして、 「壹與」まで「臺與」の間違いだとする道理はない。 (0ポイント) | 「邪馬壹」が、「邪馬臺」の誤りのように、 「壹與」は、「臺與」の誤りである。 すなわち「トヨ(台与)」である。 だから「邪馬臺」も本当は「ヤマト」と読むのだ。 (9ポイント) |
卑弥呼と壹與と記紀神話の関係は? | |
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記紀神話には、卑弥呼を思わせるアマテラスなどの神々が登場する。 |
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妄想度レベル10 | |
記紀神話に描かれた人物とは、なんの関係もない。 むしろ、卑弥呼の頃から倭国には神話が存在し、 アマテラス神を祭っていたとも考えられる。 ヤマタイ国と、大和朝廷を結ぶ物的証拠は無い。 (0ポイント) | 卑弥呼の死は、記紀神話の、 アマテラスの岩戸隠れを暗示している。 丁度、卑弥呼の頃、日本で日食が起きた。 卑弥呼=天照大神 または、「倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)」 または、「神功皇后」である。 「(台与)トヨ」は、「豊玉毘売(トヨタマヒメ)」のこと。 (10ポイント) |
記紀神話の東遷はあったの? | ||
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記紀神話では、 天孫した天津彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト)の、 四代目の神、日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)が、 九州・日向、高千穂の宮より、東遷を開始したとされている。 後の神武天皇として、大和朝廷を興したとされる。 しかし、事実かどうかは不明。 北九州・夜須町周辺の地名と、畿内・大和郷周辺の地名が類似しているので、 人の交流があったことは確かだと言える。 畿内を中心に栄えてきた銅鐸文化が消滅した後、古墳時代を迎えるが、 すでに銅鐸の用途は忘れられてしまっていた。 西暦266年、邪馬台国は、晋に使者を送った後、消息を絶つ。 |
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妄想度レベル11 | ||
九 州 説 | ヤマタイ国は九州で滅ぼされた。 別の勢力が近畿で台頭し、大和朝廷となった。 ヤマタイ国と、畿内の大和朝廷とは無関係。 東遷を事実とする証拠は無い。 (0ポイント) | 九州にあったヤマタイ国は、 東遷して大和朝廷になった。 (7ポイント) |
畿 内 説 | 畿内のヤマタイ国が滅んだ後、 別の勢力が台頭し、大和朝廷になった。 (3ポイント) 別の勢力は、九州から攻めて来たかもしれない。 (プラス6ポイント) | 古代より、ヤマタイ国は畿内で栄え続け、 大和朝廷に繋がっていく。 東遷があったとしても、 卑弥呼の時代よりずっと古代の記憶。 (11ポイント) |
0ポイント〜5ポイント | 識者を装うひねくれ物で人間的魅力に欠けます |
6ポイント〜19ポイント | わりと常識的な歴史認識でしょう |
20ポイント〜39ポイント | 立派な古代伝記小説が書けます |
40ポイント〜59ポイント | とてもロマンチックで素敵な人柄 |
60ポイント以上 | お国のためならいつでも死ねます |