ニギハヤヒのひみつ
January.14.2010
みを
クイズです!
天孫降臨の舞台はどこだったでしょうか?
にい
はいは~い!
九州の高千穂で~す。
みを
正解! 九州の高千穂に、天津神の子孫のニニギが天から降りてきました。
それが天孫降臨神話だったよね。
ニニギが、神武のひいおじいさんなの。
にい
そのあと、神武が九州の日向から東征して、ヤマトに来て、天皇になったんだよね。
みを
では、神武がヤマトに来る前は、誰がヤマトの王様だったでしょうか?
にい
神武が来る前のヤマトの王様?
う~~ん、誰だっけ? そんな人いたっけ?
みを
その名は、ニギハヤヒ!
にい
ニギハヤヒ?
みを
ニギハヤヒも、神武と同じ、天津神の子孫なのよ!
ニギハヤヒは、神武より先にヤマトにきていて、ヤマトの王になった人。
神武は、ニギハヤヒのヤマト国を、自分が統治しようと思って、東征を決めたと、日本書紀に書いてあるわ。
にい
へ~~。 そうなんだ。
神武も、ニギハヤヒも天津神の子孫なら、親戚ってことだよね?
みを
神話では、そういうことになってるわ。
でも、天孫降臨が本当かどうかは、わからないから、
神武と、ニギハヤヒが、本当に親戚だったかどうかは、わからない。
とにかく、神武とニギハヤヒはお互いを天津神の子孫と認め合って、戦いは終わり、神武が天皇になったとされてる。
にい
本当は、ニギハヤヒは、神武の親戚じゃないかもってこと?
みを
神話では親戚ってことになってるから、とりあえず、敵同士じゃなかったってことで、そのまま考えましょ。
ニギハヤヒは、別名、天火明命とも呼ばれてるわ。
日本書紀では、明記されていないが、
神社などに伝わる伝承では、
ニギハヤヒは、天火明命と、同一とされている。
天皇の皇祖神である天津神は、アマテラスとタカミムスビ。
その孫がニニギなので、天孫と呼ばれている。
ニニギの子孫が神武天皇。
この系譜上に、
天火明命(アメノホアカリ)
という神が登場する。
日本書紀では、天火明命は、ニニギの子とされ、
また、日本書紀一書(六)では、ニニギの兄ともされている。
ニニギに近い血筋であるとされている。
にい
天火明命?
ニギハヤヒの別の名前?
みを
天火明命は、丹後一宮の籠神社で祀られてる神よ。
天火明命を始祖とする古い系図もみつかってて、天火明命は、丹後に降臨したという伝承もあるそうよ。
丹後にも、天孫降臨神話があったのかも?
にい
それって、どういうこと?
みを
日本神話では、まず、イザナギとイザナミが日本の島を産んで、
そのあと、オオクニヌシが国作りをして、
そのあと、高天原の神が降りてきて、日本を統治したことになってるわね?
その高天原の神が降りてきたのは、九州だけじゃなく、近畿にも降りてきた、ということになるわけ。
日本神話の流れ
イザナギ・イザナミが大八島を産んだ。
↓
大八島で国作りをしたのは大国主だった。
↓
その後、大国主が、高天原の神に国を譲り、
高天原の天孫が降臨した。
↓
降臨した地は、九州(ニニギ)と、
近畿(天火明・ニギハヤヒ)の二箇所あった。
↓
九州で、神武が生まれ育った頃、
ヤマトはすでに、ニギハヤヒが統治していた。
↓
それを知った神武がヤマトに東征し、
ニギハヤヒの代わりに神武が王となった。
国譲りの舞台は出雲だった。
天火明がニニギの兄であったなら、
ニニギが九州に天孫降臨したとき、
本州でも天火明が天孫降臨していたということになる。
にい
そ、そうだったの?
みを
神話をそのまま読むと、そういうことになるのよ。
にい
ニギハヤヒが先に降臨したヤマトに、後から神武が攻めてきたんだね?
みを
ニギハヤヒと神武は、どちらも天津神の子孫だけど、
神武のほうが天津神に加護されてるとニギハヤヒが認めたので、ニギハヤヒは神武に帰順したというお話になってるわ。
つまり、日本神話は、ニギハヤヒに気を使いながら神武がニギハヤヒから政権移譲を受けたと言ってるわけ。
にい
ニギハヤヒのほうから、神武にヤマトの国を譲ったという、お話になってるってことなんだね?
みを
日本神話は、外部の勢力が、力づくで征服して君臨したような感じじゃないのが、
おくゆかしさを表してるというか、「和」を大事にする民族なのかな~って思うわ。
あるいは、神武が王になった後も、政権運営のためにニギハヤヒの協力が必要だったという意味にもなるわね。
にい
ヤマトを征服しようにも、それまでの王様だったニギハヤヒと仲良くしないといけなかったってことね?
みを
神武東征といいながら、
ニギハヤヒが征伐の対象ではなく、国を譲らせた形式になってるのは、
神武にとって、ニギハヤヒは、国家運営に必要で、無視できない勢力だったからでしょうね。
そして、ニギハヤヒの子のウマシマヂの子孫が物部氏となり、ヤマト朝廷を支えることになったのよ。
にい
ニギハヤヒと神武は、本当の親戚でなくても、
神武はニギハヤヒとうまくやっていきたかったんだろうなあ。
みを
神武は、ニギハヤヒを帰順させたとき、同じ天津神の子孫として身分を保証し、
同族の契りを交わしたのかも知れないわ。
ナガスネヒコは、そういうオトナの駆け引きに反発して、最後まで抵抗したため、殺害されたのかも?
にい
……で、神武にヤマトの国を譲ったニギハヤヒは、物部氏として神武の家来になったのね?
みを
そういうことになるんだけど、……このへんに、ひみつを感じるなあ。
にい
ひみつって?
みを
ニギハヤヒは、最初、神武を打ち負かすほどの戦いを見せたよね?
いくら神武の家来になったとしても、ニギハヤヒの勢力は衰えてはいなかったと思うの。
神武は、橿原を領地にしたけど、その西側には葛城国があったと、日本書紀にあるわ。
まだ、ヤマトの盆地を完全に征服はしてなかったということ。 ということは……。
にい
ということは?
みを
神武が即位した後も、ニギハヤヒの領地がまだ残っていたんじゃないかな?
神武が橿原で即位したとき、すぐ西側には葛城国があったので、
神武の領地は、橿原より広くなかった。
なら、その他の地域には、ニギハヤヒの領地が残っていたはず!
A.鏡作坐天照御魂神社(奈良県磯城郡田原本町八尾)
祭神・天照國照彦天火明命/石凝姥命/天児屋根命
B.志貴御県坐神社(桜井市大字三輪字金屋)
祭神・天津饒速日命
C.山辺御縣坐神社(奈良県天理市西井戸堂町)
祭神・建麻利尼命
(建麻利尼命は、天火明命の子孫)
Aのあたりには、弥生時代の唐古・鍵遺跡がある。
神武の征服した橿原に対する、ニギハヤヒの領地は、
A~Bの三輪山西北の領域だったのではないか?
神武の後、八代の天皇の事績は伝わっておらず、
どのようにヤマトを統治していたか、はっきりしていない。
欠史八代
初代・
神武天皇
/神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)/始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)
二代・
綏靖天皇
/神渟名川耳天皇(かむぬなかわみみのすめらみこと)
三代・
安寧天皇
/磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
四代・
懿徳天皇
/大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)
五代・
孝昭天皇
/観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)
六代・
孝安天皇
/日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)
七代・
孝霊天皇
/大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと)
八代・
孝元天皇
/大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)
九代・
開化天皇
/稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおびびのすめらみこと)
十代・
崇神天皇
/御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)/御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)
これら八代の天皇は、日本書紀・古事記では系譜だけが伝わり、事績がほとんど伝えられていない。
初代~十代までの天皇の宮(位置は諸説あり大雑把です)
初代・神武天皇/橿原宮(畝傍)/奈良県橿原市畝傍町
二代・綏靖天皇/高丘宮(葛城)/奈良県御所市森脇
三代・安寧天皇/浮穴宮(片塩)/奈良県大和高田市片塩町
四代・懿徳天皇/曲峡宮(軽)/奈良県橿原市見瀬町・大軽町
五代・孝昭天皇/池心宮(腋上)/奈良県御所市池之内
六代・孝安天皇/秋津嶋宮(室)/奈良県御所市室
七代・孝霊天皇/廬戸宮(黒田)/奈良県磯城郡田原本町黒田
八代・孝元天皇/境原宮(軽)/奈良県橿原市見瀬町・大軽町
九代・開化天皇/率川宮(春日)/奈良県奈良市本子守町
十代・崇神天皇/瑞籬宮(磯城)/奈良県桜井市金屋
にい
天皇の宮が、最初は西側に偏ってるんだね?
みを
葛城国の側に、天皇の宮が偏ってたから、葛城王朝があったのでは?と、言われてるわね。
でも、東側に宮が無いのは、まだ東側に領地を広げられなかったということかも?
そこに、ニギハヤヒの領地があったからじゃないかしら?!
6代天皇まで、ヤマトの西側に天皇の宮が無いのは、
西側にはニギハヤヒの領地があり、天皇の支配が及ばなかったからではないか?
1~6は、6代目までの天皇の宮が置かれていた場所。
Aのあたりには、弥生時代の唐古・鍵遺跡がある。
このあたりに天皇の宮が置かれるのは、
七代・孝霊天皇(黒田廬戸宮)からなので、
それ以前は、ニギハヤヒが支配していたはず。
Bのあたりは、
神武が攻めてきたときに、
神武と戦った磯城八十梟帥(シキヤソタケル)や、
多くの軍が集められていた要害の地。
この地も、ニギハヤヒの支配領域だった。
Cのあたりは、神武に敵対する勢力=ニギハヤヒ側の土族がいた。
山辺御縣坐神社の建麻利尼命は、天火明命の裔。
欠史八代の時代、
まだ、ヤマト全体に君臨するほどの力を、
天皇が持っていなかったとしたら、
三輪山麓のヤマトのマツリゴトは、
実質的にニギハヤヒの一族が担っていたことになる。
記紀神話では、崇神天皇から三輪山を祀る記事が登場する。
三輪山祭祀の実権が、崇神天皇の時代に、
ニギハヤヒから天皇家に移り、
ヤマトの完全支配を成し遂げたということではないか?
七代・孝霊天皇の黒田廬戸宮は、Aのあたりに置かれる。
孝霊天皇の娘のヤマトトトヒモモソヒメは、
三輪山の大物主を祭った。
モモソヒメは、ニギハヤヒの領域で生まれ育ち、
三輪山の祭祀を受け継ぐ素地を持っていた。
にい
最初は、神武の国と、ニギハヤヒの国が、まだ、分かれてたのかもしれないのね?
仲良く手を取り合って、一緒にヤマトの国を治めてたのかも?
みを
そのひみつは、またゆっくり考えよう!
戻る