神武東征は苦難の旅路



January.13.2010







みを
今回は、神武東征神話について語るよ!


にい
ヤマトの初めての天皇が、九州の日向から東征してきたお話ね?
すご〜〜い! かっこい〜〜!


みを
神武の華々しい活躍で、九州男児がヤマトを征服しました!
……というような、威勢のいい話でもないみたいなのよね。


にい
どういうこと?


みを
ヤマトに到着する直前までは、東征の旅は順調だったんだけど、
最後のヤマト入りの激戦で負傷したり、嵐にあったりして、
神武の兄弟がみんな亡くなって、生き残った神武の血縁は、神武の息子だけになったの。


にい
うわぁ。 大変だったんだねえ。


みを
もとから、ヤマトに住んでた人も、必死に抵抗したんだろうね。


にい
そりゃあ、他のクニから武器を持って襲ってこられたら、ヤマトの人も戦うよね。


みを
そうした、激しい戦いがあったことを、神武東征神話は伝えてるのよ。





神武の兄弟は、東征中に、皆、死んでしまった。
東征は悲壮感漂うものだった。







にい
兄弟がみんな死んじゃったなんて、可愛そう……。


みを
だから、東征といっても、大軍で押し寄せていったという感じじゃないでしょ?
指揮官であったはずの、神武の兄弟が、皆、命を落とすくらいだから。


にい
でも、ヤマトで天皇に即位してからは、しっかりヤマトを統治したんだよね?


みを
ところが、そうでもないみたい。
神武が亡くなると、いきなり、内乱があったような記事があるわ。


にい
え? どんなふうに?


みを
神武の皇子達が王位を賭けて争ったみたいなのよね。





神武が崩御すると、皇子同士の皇位継承争いが起こった。
結果、九州出身の皇子だったタギシミミは死んだ。


神武には、九州で娶った媛との間の子であるタギシミミと、 ヤマトで娶った媛との間の子がいた。
九州出身だったタギシミミは、ヤマトで生まれた義弟たちに殺されてしまった。




2代目にして、九州出身者純血の天皇はいなくなった。







にい
これって、どういうこと?


みを
もしも、神武が九州出身の大軍勢を連れてきて、ヤマトの中で九州の人たちが一大勢力を持っていたなら、
2代目天皇も九州出身の血筋から選んだほうが、いろいろ都合が良いはずよね?
選ばれなくても、九州出身の人たちに支えられて権力を振るえたはず。
ところが、ヤマトで生まれた義弟たちに殺されて、排除されてしまったの。


にい
ヤマト入りした九州の勢力は、けして多くなかったということかなぁ?


みを
神武が即位した、橿原の領地に住んでいただけだったんじゃないかしら?


にい
でも、これって本当のことなの?


みを
本当かどうかは、わからないけど、
「多」さんの家系では、そう語り継がれていたということよ。


にい
「多」さんって、誰?


みを
日本書紀では、カムヤイミミの子孫が多臣とされ、
古事記を編纂した太安万侶も、多氏の子孫なのよ。
橿原の北には、カムヤイミミを祀る多神社もあるわ。




神武東征や、タギシミミを討ったという昔話は、
天皇家と多氏が伝えてきた始祖神話なのよ!



古事記は、多氏の子孫の太安万侶が献上し、
日本書紀では、神武の子孫は、2代目の綏靖天皇と、多氏の祖のカムヤイミミだけとしている。



神武東征は、けして九州勢力の華々しい東遷の物語とは言えない。
九州出身の神武の一族の系譜は、ヤマトでは、あっさり途絶えてしまっているのだ。










にい
神武東征からタギシミミの反乱までの出来事は、天皇家と多氏だけが知ってる出来事だった……、
……ということは、創作するなら、いくらでも壮大な話が作れたはずなのに、
できなかったということ?


みを
創作だったら、神武東征で神武の兄弟が全滅したりとか、神武の実の皇子のタギシミミが反乱を起こしたりとか、
そういう王権にとって脆弱な部分は伏せて、もっと華々しい事績を描いてヤマトの王である正当性を称えればいいはず。
神武の兄弟が亡くなってるって書いてあるということは、実際に神武の兄弟の子孫は存在していないから。
神武の一族が大挙してヤマトにやってきた、という話にはできなかったのね。


にい
もしも、神武の兄弟が大勢生き残っていたとしたら、
その子孫もたくさん名乗りを上げるはずだから、東征中に死んだとは書けないはずだものね。





神武東征神話を、「事件」と「家系」から分析してみる。


神武東征神話創作か、史実か?
神武は九州から来た史実
九州・日向には、神武と婚姻した吾平津姫が、
民間に伝承されている。
神武の兄弟は戦死した史実
神武の兄弟を祖とする子孫はいない。
初代天皇になった史実
橿原に大王の宮があったと民間に伝承されていたはず。
ただし、橿原を占領して首長になったという程度かもしれない。
タギシミミが討たれた史実
九州・日向の吾平津姫の子孫は、ヤマトにはいない。


神武東征の結果、九州を母体とする神武の一族は、
神武しか生き残らなかったという説話になっている。
九州・日向で、神武と婚姻した吾平津姫の血筋は、ヤマトにはいない。
九州の影響力は、ヤマトにはほとんど無かったことになる。








みを
神武東征の実態は、九州から少数の部族が移住してきただけで、
神武天皇が即位したと宣言したとしても、部族の中だけの首長に選ばれたという意味程度だったのかもね。


にい
そういえば、神武天皇の後の天皇って、ヤマトで何をしたのかって、よくわからないね?
田を広げたとか、灌漑したとか、他のクニを攻めたとか攻められたとか、そんな話は無くて、
何も記録が残ってないみたい?


みを
まだまだ、立派な事績が残せるほど、ヤマトの人々から認められた存在じゃなかったんじゃないかしら?
だけど、昔は橿原にイワレヒコという王がいたと、名前だけは伝わっていたということだと思うわ。


にい
じゃあ……邪馬台国東遷説ってのは……?


みを
神話を読む限り、九州の王宮がまるごと遷都してきたようなイメージじゃないと思うなあ。
神武天皇の直接の子孫の多氏が伝えてきた神話を疑うなら、
日本神話の何もかも信用できないことになるんじゃない?




多氏が伝えてきたことは、祖先が九州から長い旅をし、
家族を失いながらも、一族の生き残りが、ヤマトの大王になることができた、
そういう苦難の旅路の後の、立身出世の物語を持った家系であるということ。


神話を読み解くなら、まず、
昔の人が、語り継いできた物語を、敬意を持って受け止めることが必要じゃないかしら?



にい
じゃあ、じゃあ、邪馬台国は……、ヤマトのクニのことなの?


みを
それは、まだわからないわ。
ヤマトのクニと同時に、九州に邪馬台国というクニがあっても、おかしくないから。


にい
そっか〜。
まだまだ、謎は多いんだね!





















神武の領地は橿原の周辺に限られていた。


















橿原−橿原宮で、神武天皇が即位した。
築坂邑−大伴氏の祖の道臣が宅地を賜る。
久米邑−久米氏の祖の大来目が宅地を賜る。
多神社−多氏が居住し、神武天皇・神八井耳命が祀られている。



橿原の遺跡は、縄文時代晩期のものが見つかっている。
弥生時代に移り変わる直前の遺跡だという。

多氏はこの地で水稲耕作を開拓したという。
多神社の北には、弥生時代の環濠集落、唐古・鍵遺跡がある。

神武東征神話は、弥生文化がヤマトに流入してきた頃の、
遠い昔の記憶かも知れない。












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