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邪馬台国論争おさらい


March.31.2009








つづき
そういえば、邪馬台国って何だっけ?

かおる
しょっぱなから、つまらないボケはやめてください。

つづき
前回、大和王権の創世記の歴史について、あれこれ考察してみると、
大和の王は、尾張・丹波・吉備など近隣のクニの姫を娶り、勢力を拡大し大王となっていった様子が見て取れるようじゃった。


日本書紀・古事記に描かれた、古代の大和王権の国々


神武~崇神天皇の時代に関係を持った国。

大和-大和王権の中心。
阿波-祭祀氏族「忌部」の出自は、四国・徳島。
淡路-和知都美の御井宮。
尾張-孝安天皇后に、世襲足媛・尾張連祖
吉備-吉備津彦。(四道将軍)
越-大彦。(四道将軍)
東海-武渟川別。(四道将軍)
丹波-丹波道主王。(四道将軍)
紀国-「紀伊国荒河戸畔の女」が崇神天皇の妃になる。


出雲と大和王権との関わりは不明?
三輪の大物主と出雲の大国主の関係や、
出雲が大和王権成立に関わったのか、
大和王権に出雲が駆逐されたのか、
謎が多すぎるので後の検討課題とする。

九州と大和王権との関わりは不明?
神武以後~崇神天皇の間は、
日本書紀・古事記に九州と関係を持った逸話は登場しない。
後の景行天皇が、九州を平定したという。



考古学的には、大和は物流の中心地だった?

纒向遺跡から、多くの搬入土器が見つかった。


纒向遺跡からは、外来の土器が15%以上見つかり、
日本各地から多くの人や物が纒向にやってきたことがわかった。
こうした例は他では見られない。
搬入土器の約半数は、東海系土器、次に、北陸系・山陰系・河内系・吉備系、
関東系・近江系・西部瀬戸内系・播磨系・紀伊系となっている。
九州からの土器は少ないようだ。



かおる
考古学的にも、大和は交易の中心地だったようですね。
大和王権誕生の経緯は、これで、おおよそ解明できたことになりますね。
つづき
ということは、つまり……。

かおる
つまり?

つづき
邪馬台国って何だったの?

かおる
何だ、じゃなくて、魏志倭人伝という中国の歴史書に、「古代の日本には邪馬台国という国がありましたよ」と、
そう書かれていた、ということじゃないですか。

そして、

邪馬台国はどこにあったのか?
大和王権との関係は?

という問題が、長年の論争になっていたわけです。






邪馬台国問題の本旨

日本が、いつの時代から、
まとまりのある一つの国になったのか?
大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?

「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、
謎を解く重要な史料だった。









つづき
論争の発端とは、そもそも、どのようなものじゃったろう?

かおる
長年の論争といっても、はじまりは江戸時代からのことです。
それ以前は、邪馬台国「論争」というものはありませんでした。




邪馬台国論争は、江戸時代から。

それ以前の学者は、
邪馬台国の所在地について気にとめていなかったか、
普通に、邪馬台国は大和国のことだと考えていた。



「隋書」東夷伝 倭国伝

倭國 在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居
魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數 但計以日
其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下 都於邪靡堆
則魏志所謂邪馬臺者也

-----------------------------------------------------------

656年に完成した隋書では、
「邪靡堆(大和)」は、魏志のいう「邪馬臺」であると明記されている。
「隋書」の書かれた唐の時代には、使者が何度も往来し、
互いの国の歴史を研究し合っていたはず。
魏志倭人伝にある邪馬台国は、大和国であるという、
そのような共通認識が日中間にあったことが伺える。
(事実かどうかは別問題)



江戸時代、一人の学者が、
邪馬台国は、大和国だと言及した。



新井白石
(1657-1725)


江戸時代中期の学者である新井白石は、
その著書「古史通惑問」の中で、
邪馬台国とは大和国であると説いたという。




新井白石に反発したのか?
別の学者が邪馬台国は九州だと考えた。



本居宣長
(1730-1801)


古事記を解読し「古事記伝」を著す。
宣長は尊王攘夷の立場から、
邪馬台国=大和国では、
天皇の祖先が中国に朝貢していたことになるので、
それを否定した。
邪馬台国は九州にあったとし、
中国に朝貢していた卑弥呼は、九州の女酋だと説いた。




「天皇の祖先が、中国に朝貢などするはずがない!」
というイデオロギー論争から、九州説は始まった。
明治維新の約100年前のことである。










かおる
考古学的には、もう邪馬台国は、畿内の大和王権と同一ということで決着しているようですが、
邪馬台国は九州にあったという、九州説を唱える人も根強く存在するようです。
つづき
畿内に大和王権が誕生したという現実をもとに、大和王権=邪馬台国だと主張する者と、
大和王権とは別に、九州に邪馬台国があったと主張する者がいる、ということであるな。



畿内説=畿内に生まれた大和国が、邪馬台国だった。
(勢力範囲は、九州~近畿~東海)










九州説=邪馬台国は九州にあり、畿内の大和国とは別だった。
(勢力範囲は、九州)







かおる
他にも諸説はありますが、おおよそ、その畿内説・九州説にわかれて、今も激論を交わしているようですね。
多くは、魏志倭人伝の解釈の仕方についての意見の相違です。
つづき
邪馬台国までの、距離や方位、風俗などを、どう解釈するか? ということじゃな。
普通に読めば、九州の様子を書いたように読めるが。
かおる
そのあたりの議論は、結果的には、畿内説・九州説ともに譲らずで答えは出ていませんので、ここでは触れないことにします。
あと、東遷説なんてのもありますが……。
つづき



東遷説とは、なんぞや?


かおる
九州にあった邪馬台国が、畿内に首都機能を移して、そのまま大和王権になった、という説です。




東遷説=九州の邪馬台国が東遷して畿内の大和王権になった。







つづき
九州の邪馬台国が、畿内に移動したとな?

かおる
東遷説の生まれた背景は、
畿内の大和王権がどのように生まれたのか?」という疑問を解消するためのものです。


考古学が進歩する前は、どうして「大和という場所」に王権が生まれたのか、そのプロセスが謎でした。
日本神話などの文献を解釈するしかなかったのです。






戦前までは、
畿内の大和王権が生まれた経緯は、謎だった。
神武東征神話を根拠とするしか無かった。



神武東征神話

紀元前660年に、
九州・日向からカムヤマトイワレヒコが大和に東征し、
初代天皇として即位した。

だから、大和に王権が生まれた。
それ以上でも、それ以下でも無い。
考えたり批判することは許さない!
(大本営)



近代の学者は、
畿内の大和王権が生まれた経緯を、
科学的に解明したかった。



皇国史観への批判

神武東征神話は、あくまで神話。
史実として扱わない。

畿内に生まれた豪族が徐々に力をつけて、
ヤマトのクニをつくり、
やがて西日本を支配するまでに至った。

津田左右吉は記紀神話(皇国史観)を批判した。
師の白鳥庫吉は、邪馬台国九州説。
戦後の九州説は、皇国史観否定から始まった。



戦前の天皇賛美の反省をする一方で、
考古学でも意見が分かれたらしい。



関西の考古学者

畿内で生まれたクニが発展して大和王権になった。
邪馬台国は、大和国のこと。

大和王権の歴史を3世紀から認めることになる。
神武東征神話を肯定することにもつながる。
記紀神話を肯定することは、前時代的?
でも、地元に邪馬台国があったなら誇らしいよね。

関東の考古学者

邪馬台国と大和王権を結ぶ根拠は無い。
だから、邪馬台国は九州でもおかしくない。

記紀神話なんて、奈良時代の作り話なんだから、
神話と歴史が違っていて当然。
大和王権の歴史を、3世紀まで古くしなくてよい。
関西が古代から歴史の中心だったなんて認めがたい。



以後、邪馬台国論争は、イデオロギーや村おこしも絡め、
ドロドロの様相呈している。





つづき
なんだか、関西と関東の考古学者は意地の張り合いで、畿内説・九州説に分かれてたようじゃのお?

かおる
当人の思惑は、どうだかわかりませんが、最初は畿内説には不利な状況になっていたようです。


邪馬台国の3世紀の時代、もしも奈良が邪馬台国の中心だったなら、それらしい遺跡が見つからないといけないのですが、
どうも、めぼしい遺物が出てこないわけです。
鉄器なんかがその例です。
九州では、鉄器がどっさり出てくるのに、奈良から出土する鉄器は極端に少なかったわけです。
「土壌のせいで、奈良では鉄は溶けて消えた」という言い訳をしたり、
卑弥呼の鏡と見られた三角縁神獣鏡も、中国では1面も見つかっていないなど、
批判もかなり受けたようですね。







関西の考古学者は、奈良に王権があった証拠として、
鉄器が豊富に出てくるはずだと考えた。

しかし、ついに奈良から鉄器がざくざく出てくることは無かった。

鉄器は、むしろ九州から豊富に出てきた。

だったら、王権があったのは、九州であり、
奈良には王権が生まれる素地すら無かったんじゃない?

だったら、邪馬台国は九州で決まりだね!

めでたしめでたし。










つづき
鉄器が乏しいというのは、痛いかもしれんのお。

かおる
さらに、畿内説に都合が悪い?ことには、
魏志倭人伝の邪馬台国が世間一般に知られるようになったのが、九州説とセットだった、という現実です。

去年映画化もされた「まぼろしの邪馬台国」(宮崎康平/講談社/1967年/第一回吉川英治文化賞受賞)が出版されことで、
邪馬台国ブームが起きたようです。
著者は九州説を説いていたこともあり、一般には九州説が支持されていったようです。


つづき
1967年以後は、世間の認知度は、すっかり「邪馬台国=九州」となっていたわけじゃな。

かおる
他の歴史作家も、こぞって邪馬台国九州説の設定で作品を発表していたようですね。
売れ行きも、九州説のほうが多く、畿内説よりの話ではほとんど売れなかったでしょう。 読者も九州説を求めていた時代ですから。
つづき
商売のためには、九州説を担ぐのはプロとして当然じゃよ。ふぉっふぉっふぉっ。(←他人事)

かおる
フィクションとしてなら、良いんでしょうが、
まじめな研究者にとっては、やりにくい時代だったことでしょう。



九州説は、さらに一人歩きを始めました。
邪馬台国が九州だと確定したものとし、邪馬台国は、その後どうなったのか?
畿内の大和王権との関係は?
という新たな謎が生まることになりました。
それをうまく説明したのが、東遷説なわけです。




邪馬台国は九州で決まりだね!

じゃ、奈良に大和王権が生まれたのはどうして?

神武東征神話があったよね!

だったら、九州の邪馬台国が、奈良に東遷したってことじゃん!

めでたしめでたし。









つづき
神武東征神話は、いかにも東遷説に信憑性を与えるじゃろうのお。

かおる
ここで、注意すべきことは、東遷説は、あくまでも邪馬台国が事実として九州にあったという前提で、
めぼしい遺跡の無かった奈良に大和王権が生まれた理由を説明する上で有効な仮説だった
ということです。

しかし、近年になって、大和王権が生まれた理由が説明できるようになってきました。
纒向遺跡の発見がその契機です。

纒向遺跡の評価は様々ですが、箸墓古墳が作られた時代に急激に開拓され、
大溝や、多くの柱穴、祭祀器具、土木工事用具、西日本各地から持ち込まれた搬入土器の多さから、
近隣地域から多くの人が纒向に集まり、構造物を作り、何かをしていたのは確かなようです。

近隣地域から多くの人が動員され、土地を区画し、構造物が作られたということは、
近隣のクニグニに声をかけ、多くの人を集め、建築現場で号令をかける主導者がいた」ことになります。
近隣地域から多くの人を動員した土木工事跡という例は他の遺跡ではみつかりません。
箸墓古墳建造に関わったらしいということから、 纒向遺跡の解明が、大和王権誕生のプロセスを知る手がかりとして期待されています。








纒向遺跡が、畿内説を蘇らせた。



纒向遺跡

奈良県桜井市・三輪山の北西麓に広がる、
JR巻向駅を中心に、東西約2キロ・南北約1.5キロ、面積は3000m2という。

弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。
大和王権の象徴である前方後円墳が作られ始めた頃のもの。
箸墓古墳もその一つ。
後の大和王権と直結する遺跡である。

昔は、太田遺跡・勝山遺跡として小規模な遺跡群として、
あまり注目はされていなかったが、発掘が進むにつれて、
大溝(運河)導水施設跡の発見などから、
計画性をもって作られた遺跡であることがわかってきた。

作られたのは高床式倉庫群で、
竪穴式住居跡は見つかっていないことから、
多くの人が定住していたとは言えず、
邪馬台国の「王都」とは呼べないのではないか?という批判もある。




奈良の遺跡からは、
鉄器などの強大な権力を示すような遺物は
ほとんど見つかっていない。

しかし、それまで注目されてなかった、小さな遺跡群が、
計画性を持った大きな遺跡郡であることがわかってきた。
それが、三輪山の北西麓にある纒向遺跡だった。

纒向遺跡から、豊富な鉄器が見つかったわけではない。
しかし、そのかわりに、外来からの搬入土器の多さから、
多くの人が、この地に動員されていたことがわかった。

近隣地域から多くの人や物資が、この地に集まったと見られる。
それは、人々を主導するリーダーの存在や
この地に、人々が信奉を寄せる
なんらかの権威があったことを示す。

鉄器を用いた力による王権ではなく、
祭祀による神がかり的な祭祀王が存在したのではないか?







邪馬台国問題の本旨

日本が、いつの時代から、
まとまりのある一つの国になったのか?
大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?

「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、
謎を解く重要な史料だった。



纒向遺跡の発見

近畿を取り巻くクニグニの人々は、
弥生時代末期に、
纒向を中心に集まりはじめた。
その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、
後の大和朝廷まで繋がっていく。

魏志倭人伝を解釈しなくとも
大和王権成立までの流れが解明されてきた。


邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、
「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」
という問題は解決した。












つづき
鉄器による力の権威ではなく、祭祀による宗教的権威が、大和王権の素地であった、ということかのお?

かおる
実際、吉野ヶ里のような環濠も楼閣も無いし、出雲の大量の銅剣や巨大柱のようなインパクトも無いので、
研究者の注目度は高くても、一般の関心は薄いようですね。

たまに、纒向遺跡がニュースになりますが、遺跡が地味すぎるので、
一般の人には、何がすごいのか、ほとんどわからないのではないでしょうか?
それでいて、「邪馬台国とされる纒向遺跡~」という報道のされかたをするので、
九州説の方からは反発を買ってるようですね。




つづき
わしも、纒向遺跡の実態を把握しておるわけではないが、搬入土器の多さは注目に値すると思っておる。


他の地域からの土器が多い、ということは、人々の交流が活発であったということじゃ。
後に「大市」と呼ばれたことから、物々交換の売買が行なわれていたであろう。
この地の神への貢物という意味合いもあったじゃろう。
人々の集まる土地には、それを仕切る豪族が生まれたであろう。
その豪族は、他地域との関係を持ち、影響力を増し、やがて大王となっても不思議ではない。




かおる
そんなわけで、纒向遺跡の様子を見れば、そこに祭祀的な、何らかの権力構造が生まれたことを、
鉄器のような威信財が無くとも、十分見てとれるようになった、というわけです。
つづき
九州説側としては、心穏やかでは無いじゃろうなぁ。

かおる
纒向遺跡の発掘により、ほとんどの考古学者は畿内説に転向したようです。
しかし、ここが重要なポイントです。


3世紀に大和王権が存在しても、
九州に邪馬台国が無かった、
という結論にはならない。





つづき
無論、その通りじゃ!

かおる
しかし、九州説を説いてきた一部の人たちは、3世紀の畿内王権の存在すら認めたがらず、
纒向遺跡に対して、「年代遡上」だと、批判をしています。

考古学者の見解は、纒向遺跡の年代は邪馬台国・卑弥呼と同時代としてますが、
一部の九州説側としては、纒向遺跡の年代は邪馬台国以後の新しいものだと考えたいわけです。


ちょっと、おさらいをしてみましょう。





邪馬台国はどこにあったのか?
九州説

邪馬台国は九州だ!
畿内説

邪馬台国は畿内・奈良だ!
王都ならば鉄器が多いはず?
九州は鉄器が多い

王都としての権威が大きい!
奈良は鉄器が乏しい

王都としての権威が無い?
邪馬台国は九州で決まりだね!

では、九州に邪馬台国があったという前提で
大和王権誕生の経緯は?
大和王権誕生の経緯が
不明だった
大和王権誕生の経緯が
不明だった
邪馬台国が東遷して、
大和王権になった?

<東遷説>
大和王権誕生の経緯は
東遷説でよし!
その後、纒向遺跡の発掘で、
大和王権誕生の経緯が
解明されてきた
だったら邪馬台国も
初めから畿内でいいじゃん?

<畿内説>
絶対だめ!
邪馬台国は九州なの!
でも、大和王権の存在も事実
九州の邪馬台国と
畿内の大和王権が
同時に存在した?
<九州説>
それでよし!
邪馬台国は九州だ!
そういう事でも構わない
考古学との齟齬が無ければ
では、九州に邪馬台国があったという前提で
邪馬台国はどうなった?
とにかく、東遷した!<東遷説>

独立を維持した!<九州王朝説>
邪馬台国は消滅した

畿内の大和王権に併合された
東遷説・九州王朝説は、
証明の必要がある
大和王権の九州支配は事実なので、
証明の必要は無い
現状の論争はどうなの?
東遷説は、箸墓古墳を4世紀と主張

箸墓古墳が邪馬台国と同時代だと、東遷説が破綻する。
卑弥呼の死後(248年)に、東遷があってから、
箸墓古墳が作られたことにしたい。
遺跡を古く見積もる考古学の年代遡上を批判し、
年輪年代法もC14測定法認めない。
考古学は、箸墓古墳を3世紀と主張

理化学的年代測定、土器編年など、
様々な見地から、箸墓古墳を、
邪馬台国の時代のものだと考えている。
邪馬台国が畿内なら、
卑弥呼の墓は、箸墓古墳と推定される。
纒向遺跡が邪馬台国と同時代だと
九州説は破綻するの?
九州説は破綻しない
九州の邪馬台国と同時に、
纒向遺跡があっても問題ない。
でも、九州の邪馬台国は消滅しただろう。

東遷説は破綻する
九州の邪馬台国と同時に、
纒向遺跡があっては絶対ダメ!
九州の邪馬台国が畿内に遷都したのだ!

九州説は破綻しない
纒向遺跡と同時に、
九州に邪馬台国があった可能性は残る。
九州の邪馬台国は、大和王権と併合されただろう。
東遷説にとって、
纒向遺跡は邪魔な存在になった。
纒向遺跡は東征後の4世紀でなければならない!






邪馬台国問題の本旨

日本が、いつの時代から、
まとまりのある一つの国になったのか?
大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?

「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、
謎を解く重要な史料だった。



纒向遺跡の発見

近畿を取り巻くクニグニの人々は、
弥生時代末期に、
纒向を中心に集まりはじめた。
その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、
後の大和朝廷まで繋がっていく。

魏志倭人伝を解釈しなくとも
大和王権成立までの流れが解明されてきた。


邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、
「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」
という問題は解決した。



東遷説からの不満

魏志倭人伝を用いて九州説を説いてきた学者の一部は、
考古学の成果に不満を持った。

「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」
という問題は、まだ終わってないぜ!
九州の邪馬台国が東遷して、大和王権になったんだぜ!
……と、騒ぎ出したのである。




現在、畿内説を批判している九州説の実態は、東遷説である。
東遷説にとっては、纒向遺跡が邪馬台国と同時代では困るので、
纒向遺跡は4世紀以後だと、必死に論戦を挑んでいる。

これが、現在の畿内説VS九州説(東遷説)の基本的な対立構造である。











つづき
畿内説に対して、ごちゃごちゃ攻撃していた急先鋒は、東遷説じゃったのか?

かおる
東遷説は、大和王権誕生の経緯を説明する「手段」なはずでした。
が、纒向遺跡の登場で危機感を持ったのか、アンチ畿内説という生き残りを賭けた「目的」に変貌してしまったようです。
つづき
惜しいところではあるな。
面白い説じゃとは思うが、地道に研究を続けている考古学者に喧嘩を売るようではいかんと思うぞよ。
かおる
論理的には、絶対に東遷が無かったと断定は出来ませんし、九州説の否定にもつながりません。
ただ、大和王権誕生のプロセスが解明された今では、もはや東遷説は、積極的に検討する必要の無い説なわけです。

今の東遷説は、畿内の大和王権が発展したプロセスがわかっているのに、
どうしても九州から東遷したことにしたいという「中央の権威を貶めたい」説であり、
それでは、学問ではなく、イデオロギーや読者の人気におもねった歴史推理ロマンになっていると言えます。
東遷説を成立させるためには、まず、「九州説の証明」と、
それに続く「東遷の証明」という2重の仮説を証明する必要があるということです。

九州説では、鉄器の多さで九州の有利を謳っているのですから、
東遷説は、武力による畿内侵攻という筋書きを考えているでしょう。
しかし、畿内は武力で荒らされた痕跡が無く、纒向遺跡には環濠が無い、無防備状態というのが実態です。
武力侵攻があったなら、侵略軍は、その拠点に環濠を築くはずです。
九州と同じタイプの武器が出る環濠集落遺跡があれば、東遷があったと言えますが、そうした状況にはありません。


したがって、東遷説は成立せず、百歩譲っても、
畿内の大和王権と、九州の邪馬台国が、
並立して存在していた可能性が残されるだけ。



つづき
かおる君は、あいかわらず手厳しいのお。

かおる
ここまでの流れで見えてきた弥生時代末期のクニの様相は、次のようなものです。




鉄器の多い北九州では、鉄を武器に権力を握り、
戦いにあけくれたクニがあっただろう。
ムラに環濠を持ち、戦いの傷を残す人骨がその証拠。


鉄器の無い畿内では、武力ではなく、
平和的に人々の信奉を集めたクニがあっただろう。
纒向遺跡には環濠が無く、外来の搬入土器の多さがその証拠。




魏志倭人伝では、戦いにあけくれたクニが、
祭祀を司る卑弥呼を共立させて、和平を保ったとされている。
はたして、邪馬台国は九州か、畿内か?







つづき
かおる君、なにげに、畿内説に誘導しとりゃせんかね?

かおる
そうですか? でも、この程度では九州説の否定にはつながらないでしょう。
師匠は、どうお考えですか?
つづき
九州に邪馬台国が無かったと、断言できる決め手が無い以上、九州説は間違いとも決め付けられぬ。

かおる
九州に邪馬台国が無かったと、断言できる決め手」ですか?
それは、正直言って難題ですね。
つづき
魏志倭人伝の記述を見ても、九州の風俗を描いているようにしか読めぬであろう?

かおる
魏志倭人伝の九州っぽい記述については、使者が九州しか見聞してなかったとか、
ボクにもいろいろ反論がありますが、別の機会にしましょう。
つづき
じゃが、九州の邪馬台国が畿内に東遷したという考えは、わしも持ち合わせておらん。
邪馬台国は九州にあり、畿内の大和王権とは別に魏と外交を持っていたのではないか?

九州の女王が倭国の王を騙ったという偽僭説も、検討の余地はあろう。

後に、九州の邪馬台国は畿内の大和王権によって滅ぼされたと考えたほうが、文献的にも辻褄が合うと思う。
日本書紀の景行天皇のくだりに、大和王権による九州制圧の様子が描かれておるからな。
九州には女性指導者(巫女・女王)が多く登場し、大和に帰順していったとされている。



日本書紀によると、九州には何人かの女酋がいて、
大和朝廷に帰順していったくだりが描かれている。
九州・邪馬台国の卑弥呼の流れを汲む末裔ではなかったか?



大和王権に帰順した
九州の女性指導者(女王・巫女)


神夏磯媛(山口県・景行紀)
速津媛(大分県・景行紀)
泉媛(宮崎県・景行紀)
八女津姫(福岡県・景行紀)
田油津媛(山門郡・神功紀)
久津媛(日田郡・豊後国風土記)
五馬媛(五馬・豊後国風土記)


大和朝廷からは、土蜘蛛などと呼ばれていたという。







日本書紀・古事記は、
大和王権に抵抗する勢力が九州にいたと記している。
それが、魏と通じていた邪馬台国ではないか?

九州の邪馬台国と、畿内の大和王権は同時に存在していた?

九州の邪馬台国は、畿内の大和王権が滅ぼした?

文献上は、邪馬台国九州説が有利?




かおる
九州の墳墓には、女性の埋葬例も見られますから、女性権力者(女王・巫女)がいたことは確からしいですね。

つづき
ここらで視点を変えて、九州に邪馬台国があったとした場合、大和王権との勢力図などを考察してみてはどうじゃ?

かおる
そうですね。 ボクは個人的には畿内説支持ですが、
考古学的に、九州説がどのように成立する余地があるのか、可能性を検証するのも大事な観点でしょう。




九州説を前提に、邪馬台国と大和王権の関係を考えてみよう!




九州説を前提とした、邪馬台国と、大和王権勢力図



大和王権の国々
神武~崇神天皇までに関係を持った国。
纒向遺跡に見られる外来の搬入土器の出所とも一致する。

大和-大和王権の中心。
阿波-祭祀氏族「忌部」の出自は、四国・徳島。
淡路-和知都美の御井宮。
尾張-孝安天皇后に、世襲足媛・尾張連祖
吉備-吉備津彦。(四道将軍)
越-大彦。(四道将軍)
東海-武渟川別。(四道将軍)
丹波-丹波道主王。(四道将軍)
紀国-「紀伊国荒河戸畔の女」が崇神天皇の妃になる。



邪馬台国連合の国々

北九州一帯?






かおる
う~ん。
邪馬台国は北九州一帯ですか……。
つづき
なんじゃね? 何か怪訝な点でもあるのかの?
大和王権の勢力範囲はともかく、邪馬台国の勢力範囲は、こんなところじゃろうて。 常識的に。
かおる
出雲は、どっちの勢力についてたんでしょうねえ……?

つづき
なっ? なにっ??

かおる
なに、じゃありませんよ? 出雲は、邪馬台国の勢力範囲に含まれていなかったんですか? と、
質問しているんですが。
つづき
う~~~む。(冷や汗)

かおる
師匠は、昔、自分で出雲の漫画を書いておきながら、今日まで何も考えてなかったんですかっ?

つづき
いや、出雲は、九州の邪馬台国とはそれなりに仲良くしておったのでは無いかと……。

かおる
ごまかさないでくださいよ。 出雲も邪馬台国連合の一員として、卑弥呼共立に賛同したのか?という話ですよ?

つづき
それって、答えないとダメなの?

かおる
九州説の人は、なにげに出雲との関係に無頓着な人が多いように見うけます。
出雲が邪馬台国の一員だったかどうかは、大問題のはずなのに。
つづき
言われてみれば、そうじゃのお……。

かおる
ちなみに、出雲の神のスサノオは、朝鮮半島と行き来していたり、
出雲の国引き神話では、朝鮮半島の新羅国から土地を引いてきたりという描写があるのはご存知ですね?
つづき
出雲の民は、朝鮮半島と行き来し、航路を利用できていた、ということじゃろうか?

かおる
つまり、玄界灘ですね。 魏志倭人伝の使者が利用した航路を、出雲も利用できていたとしたなら……。

つづき
よ、よし、では答えようぞ。
わしも男じゃ。 ズバっと行こう!



出雲は、(九州の)邪馬台国連合の一員だった=卑弥呼の共立に賛同した






九州の邪馬台国は、
勢力範囲に出雲を含んでいた?






かおる
う~~~ん。

つづき
なんじゃね? まだなにか不審な点があるというのかね?

かおる
荒神谷遺跡を例に出されましたが、それなら、加茂岩倉遺跡も忘れないでください。








出雲は、九州、近畿、双方と関係を持っていた?



荒神谷遺跡

島根県簸川郡斐川町神庭西谷。
銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本を発掘。
銅剣については、一箇所からの出土では、日本最多となる。




加茂岩倉遺跡

島根県雲南市加茂町岩倉。
39口の銅鐸が発掘された。
銅鐸については、一箇所からの出土では、日本最多となる。

荒神谷遺跡とも近く、
両遺跡から出土した銅鐸に同じ「×」印の刻印がみつかった。

銅矛は九州との繋がりを示唆し、
銅鐸の多さは近畿地方との繋がりを示唆しているだろう。
つまり、出雲は、弥生時代から、
九州・近畿ともに関係が深かった国だった?




もしも、九州の邪馬台国が出雲を同盟国としていたなら、
出雲と関係していた近畿の国とも同盟していたのではなかったか?





つづき
ん~~?
つまり、こういうことかの?




九州の邪馬台国は、
勢力範囲に出雲~近畿を含んでいた?






かおる
そうですね。 考古学的にも、邪馬台国の時代において、九州・山陰・瀬戸内海・近畿・東海は、
密接な交流があったことがわかっています。

邪馬台国が九州にあったと仮定した場合、
その勢力範囲は、近畿・東海までを含んでいたでしょう。


弥生時代中・後期には、瀬戸内海に高地性集落が作られ、
九州からの侵攻に備える動きがありました。
それが、倭国大乱の証と考えられます。
卑弥呼共立で、争いが収まったのですから、
邪馬台国連合の範囲は、九州~近畿の広範囲と考えるべきです。





つづき
あ~。 あ~。 ちょっと、まちたまへ、かおる君。

かおる
なんですか?

つづき
この、邪馬台国勢力図って、畿内説そのものなんじゃないの?

かおる
いいえ? まさか。 とんでもない。

つづき
この図の、どこが九州説なのじゃ? 人をからかうのも、たいがいにせんか!

かおる
だって、九州説である師匠は、女王卑弥呼は九州にいたと考えてるわけでしょう?





一見、畿内説みたいな図かと思ったら、
卑弥呼が九州にいるので、やっぱり九州説だった?

これは、畿内説とは断じて違う!
あくまでも、九州説だっ!
だって、卑弥呼が九州にいるんだから!



九州の邪馬台国は、九州の女王卑弥呼のもとに、
近畿・東海までもを連合国傘下に治めていた?


九州には鉄器が多いんだから、
首都も九州と考えるのは自然。

畿内には鉄器が少なく、
鉄器の輸出をコントロールしていたとするなら、
九州が畿内を支配していた、と言えるだろう。










つづき
そうは、言っても……。


わしのイメージする九州説は、こんなんじゃないやいっ!!




かおる
イメージとか、って……、邪馬台国問題は学問であって、個人の妄想とは違うんですからね?
九州の邪馬台国は、西日本一帯を支配下に置いていたスゴイ国というわけですから、もっと喜んだらどうですか?
つづき
で、では、大和王権は、どのように生まれたのじゃ?
畿内は九州に支配されていたというのに? 纒向遺跡は、なんじゃったのじゃ?
かおる
九州の女王・卑弥呼の死後に、大和の大王が権力を強めたのかも知れません。
この場合であれば、九州の邪馬台国の王が東遷したと考えることもできますよ。




九州の女王・卑弥呼の死後に、
権力の力関係が変わり、
畿内が上位になった?


九州~近畿が、
同じ邪馬台国連合に含まれていたなら、
権力の移譲は容易だったろう。






九州説を前提とした、大和王権の誕生の経緯
<前提>
奈良の纒向遺跡には、環濠や戦闘の痕跡が無い。
平和的に、西日本各地の人や物資が持ち込まれていた。
ここから、大和王権は始まった。
畿内の大王が権力を強めた?九州の大王が東遷した?
九州の女王・卑弥呼が死んだ後、
畿内の大王が権力を増した。

すでに九州~近畿の同盟国が存在していたので、
大和の権力は速やかに西日本に広がった。

畿内で生まれた大和王権のシンボルである、
前方後円墳が、畿内から全国に急速に広まったのは、
周知の事実である。
九州の王が押しかけてきたのに、
纒向遺跡に環濠が無く、平和的に作られたのは、
九州の邪馬台国成立の時から、
九州と畿内は友好的同盟国だったと考えるしかない。

九州の王族を、近畿は諸手を挙げて歓迎するほど、
すでに九州と畿内が信頼関係を持ち、仲睦まじく、
九州の邪馬台国連合に、畿内も含まれていた、
という前提条件があれば、東遷説は成り立つ?
しかし、証拠が無いので証明は困難。

日本書紀には、景行天皇が九州を制圧し、
九州の女酋を帰順させたという記録がある。
文献上、この時代の大王が、
平和的に九州から迎えられたという記録は無い。
神武天皇にしろ応神天皇にしろ激しい戦闘があった。
九州の部族は大和朝廷に反抗的だった。

邪馬台国九州説を前提に考えた場合、
九州の邪馬台国が、連合国仲間として近畿も含めていたと想定するなら、
九州説も、東遷説も、成立する余地がある。







かおる
どうでしょう? 九州説としては、これ以上無いほど、合理的なシナリオだと思いますが?
考古学とも齟齬がありませんから、どこからも文句は来ないでしょう。
つづき
……理屈は間違って無いように思えるが……世間的に納得する者はおらぬのでは……?


やっぱり、世間的に九州説と言えば、
邪馬台国は九州の中だけの連合国と考えたいのではないかな?





九州説のイメージとして、
邪馬台国は、九州の中だけ、という、
既成概念がある?

東遷説も、遠くの別のクニに東遷したから、
ロマンを感じる、みたいな?



でも、出雲が、九州と無関係だったとは、
いえないはず?

出雲は九州と畿内、双方と関係を持っていたはず?
ならば、九州と畿内が無関係だったはずは無い。

もしも畿内が九州よりも劣った地域なら、
簡単に九州の邪馬台国連合傘下に組み込まれただろう。

はたして、邪馬台国は、
九州の中だけを勢力範囲としたクニだったのだろうか?







かおる
九州説の多くが、邪馬台国の勢力範囲に近畿を含んでいない、と考えているようです。
どうしてなのか、ボクは、不思議に思ってるんですが。
つづき
それは、やはり、畿内の大和王権とは別の独立国が、九州にあった、と、信じたい思惑があるのじゃろう。

かおる
それは所詮、結論先にありきの九州説なんですよ。


そもそも、卑弥呼の都が、どこだったか、わかればよかったはずでしょう?

卑弥呼の都が九州にあり、かつ、邪馬台国の勢力範囲が近畿を含んでいても、おかしくないはずです。
どうして、邪馬台国を九州の中だけと、限定したがるのでしょうか?
それは、中央政権への反発が根っこにあるからではないですか?

むしろ、邪馬台国は、九州~近畿をまたぐ範囲と考えたほうが、九州の中だけより、
魏が金印を贈るにふさわしい大国の様相を見せるはずです。
弥生時代末の西日本が、互いに交流を持っていたことは、考古学的に、畿内説側からも証明されています。
畿内説との違いは、卑弥呼の都が、九州にあったと考えることだけです。

近畿を含む九州説」という観点が、いままでどうして欠如していたのか、不思議でなりません。





合理的な九州説を考えてみよう!


近畿まで勢力圏を持った九州説の提案

「近畿を含む九州説」



「倭国大乱」

弥生時代中・後期に作られた、瀬戸内海の高地性集落は、
九州方面からの侵攻に防備するものだった。
これを、倭国大乱によるものと考える。
九州島内だけの大乱と考えることは不合理。

神話上の神武東征ルートとも一致する。

このとき、九州の部族が畿内に入植してきたはず。
彼らは、九州との交易のパイプ役となり、
力をつけただろう。






「邪馬台国は、近畿を含む」

邪馬台国時代に、
九州~近畿・東海のクニが相互に交流していたことは、
考古学的に、畿内説側から証明されている。

九州~瀬戸内海~近畿を巻き込む大乱を、
卑弥呼共立によって収束させたのだから、
西日本全体を邪馬台国連合と考えるのは合理的。

畿内説との違いは、
卑弥呼が九州に居たとすることだけ。

邪馬台国の連合国領域を西日本全体とし、
かつ、卑弥呼が九州にいたと想定することは可能。
むしろ、先進国である九州に首都があったと考えたほうが、
畿内説よりも合理的。

邪馬台国連合の範囲は、
魏から金印を贈られるのに相応しいスケールとなる。
これがもっとも、合理的な九州説と言えるはずだが……?






「大和王権の成り立ち」


卑弥呼の死後、同じ連合国内の大和の王が、
権力を掌握し、九州を制圧し、大和王権となった。

卑弥呼の死後に、
九州から支配者が移り住んできたとは考えない。
(証拠がない)


九州に女性指導者(卑弥呼の末裔?)がいたことは、
日本書紀にも記されている。

魏志倭人伝の九州的な記述と合わせ、
文献とも整合性が高い。














つづき
まてまて、じゃがしかし、いくら九州といえど、
いきなり近畿までの影響力は持っていなかったのではないか?
かおる
九州説は、さんざん、鉄器の多さで九州の優位を主張していたはずですが、
こういうときは九州の武力を過小評価するわけですか? つまり、鉄を武器にした九州による近畿制圧は失敗したと?

もちろん、強権的な実行支配というものではなく、皆で共立した卑弥呼の政治に従う、という緩やかなものだったでしょう。

九州限定の九州説」が、いかに不合理かを、表で説明しましょう。



考古学上の話 魏志倭人伝 神話上の話 近畿を含む九州説 九州限定の九州説
高地性集落
弥生時代中・後期に、
九州からの侵攻に備えるように
瀬戸内海沿岸に作られた
倭国大乱
卑弥呼登場以前に、
倭国は大きく乱れた。
神武東征
神武が、九州日向から、
瀬戸内海をルートに
畿内を侵攻し、
初代天皇になる。
近畿攻略に成功
九州の一部族が、
近畿に入植した。
九州と連合を築くパイプ役になる。
神武東征のモデル。
近畿攻略に失敗
鉄器を持った九州は
鉄器の無い畿内に
勝てなかったらしい?
神武東征神話と齟齬
九州の鉄器優位説と齟齬
邪馬台国の範囲
邪馬台国時代の西日本は
互いに物資の交流があったので、
九州と近畿が、
断絶していたとは言えない。
纒向遺跡からは、
西日本~東海各地の土器が出土。
7万戸
7万戸という数字は
邪馬台国の
範囲の広さを示す。
王の故郷は九州
大和王権の初代大王は、
九州日向から来た。
邪馬台国は近畿を含む
邪馬台国連合の範囲は、
考古学の示すとおりに、
九州~近畿を範囲とする
卑弥呼は九州にいた。
九州出身を権威として
九州出身者が大和の王になる。
邪馬台国は九州だけ
邪馬台国の範囲は、
九州だけとする。
考古学と齟齬
邪馬台国の後
畿内で生まれた王権が
西日本を制覇する
前方後円墳が作られる
男王が立つ
卑弥呼の死後、
男王が立つが、
台与が後を継ぐ
その後消息不明
大和が九州征伐
景行天皇が
九州を制圧する
九州の女酋を帰順させる
大和が権力を得た
九州の卑弥呼の死で
畿内の王が権力奪取。
そして大和の王が、
九州の女王・台与?を帰順させる。
邪馬台国から大和王権に変貌。
東遷説
神武東征のモデルは
邪馬台国以後の出来事で
九州の邪馬台国が東遷した
考古学・文献と齟齬
おおむね、
考古学や文献と
齟齬が少ない?
いろいろと、
考古学や文献と
齟齬があるように見える?






つづき
かおる君、「近畿を含む九州説」とは、畿内説とどう違うのじゃね?

かおる
何度も言うように、卑弥呼や台与が、九州にいたか、畿内にいたか、それだけの違いですね。
畿内説に似ていますが、畿内説の主張を全て採用しても、卑弥呼が畿内にいなければならない要件は無いと思います。


邪馬台国の姿は、畿内説・九州説の二元論で語られがちですが、
大きく考えれば、邪馬台国の姿は、4パターン考えられるはずです。
どれが、最も合理的か? と、考えるのが科学というものです。


分類 畿内説 畿内説でも女王国は別 近畿を含む九州説 九州限定の九州説
勢力範囲 大和国を首都として、
西日本全体の連合国が
邪馬台国。
大和国を首都として、
西日本全体の連合国が
邪馬台国。
九州を首都として、
西日本全体の連合国が
邪馬台国。
九州の中だけの連合国が
邪馬台国。
卑弥呼? 卑弥呼は大和にいた 卑弥呼は大和以外にいた? 卑弥呼は九州にいた 卑弥呼は九州にいた
その後 邪馬台国は、
大和王権につながる
邪馬台国は、
大和王権につながる
卑弥呼が死んだ後、
権力構造が大和優位になり、
大和王権につながる
邪馬台国は、東遷して
大和王権につながったとする
もしくは消滅した
認知度 考古学では一般的 聞いたことが無い かおる君の九州説 一般的な九州説
備考 考古学的には、
邪馬台国時代の西日本が
相互に交流を深めていた。
九州と畿内が断絶していたとは
言えない。
邪馬台国の首都が大和でも、
卑弥呼(女王国)が他の地にいた
可能性はある。
邪馬台国の首都が九州でも、
勢力範囲に近畿が含まれていても
おかしくないはず。
大和王権への移行も容易。
大和王権誕生後は、
この場合、邪馬台国が
消滅したと考えるならいいが、
東遷説は成立困難。
疑問点 纒向遺跡は環濠がなく、
卑弥呼の居城の描写とは食い違う
卑弥呼の居城と
首都が離れすぎ?
卑弥呼を九州に置くことで、
畿内説の疑問点を解消
九州は、他の地域とも
交流していたはず。





つづき
九州限定の九州説」では、何がイカンのかね?

かおる
この中で、「九州限定の九州説」が、一般の人気が高いにも関わらず、疑問点も多いのです。



「九州限定の九州説」には、いくつかの疑問点がある。







つづき
なにか、事情があって、九州の邪馬台国は、九州以外に手を出さなかったのではあるまいか?

かおる
それなら、その事情を説明してもらわないと。
魏は、極東の倭国の支配者として卑弥呼に金印を贈ったのですから、九州以外の倭人は関知しない、では困りますよね?

結局、九州説のホンネの部分では、「九州は、九州単独で、他の地域より上位だった」という、願望でしかないわけですよ。
九州が他の西日本を支配したとも考えたくない(邪馬台国の範疇に他の地域を入れたくない)、という、排他的な説なわけです。
それでいて、大和の王は九州出身だから、九州の邪馬台国が東遷した、とまで、話を飛躍させるわけですから、図々しいというか。




「東遷説」の問題点。








邪馬台国問題の本旨

日本が、いつの時代から、
まとまりのある一つの国になったのか?
大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?

「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、
謎を解く重要な史料だった。



纒向遺跡の発見

近畿を取り巻くクニグニの人々は、
弥生時代末期に、
纒向を中心に集まりはじめた。
その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、
後の大和朝廷まで繋がっていく。

魏志倭人伝を解釈しなくとも
大和王権成立までの流れが解明されてきた。


邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、
「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」
という問題は解決した。



東遷説からの不満

魏志倭人伝を用いて九州説を説いてきた学者の一部は、
考古学の成果に不満を持った。

「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」
という問題は、まだ終わってないぜ!
九州の邪馬台国が東遷して、大和王権になったんだぜ!
……と、騒ぎ出したのである。



研究者の役割とは?

文献史学からは、纒向に、人や物が、
どのように集まってきたか、様子を知ることは出来なかった。

考古学からは、纒向から始まる大和王権が、
魏から「邪馬台国」と呼ばれていたかどうかは知ることは出来ない。

九州に邪馬台国という国があった可能性は残る。

文献史学に求められることは、
九州に「邪馬台国」という小国があったのか、
畿内の大和王権と同一だったのか、
まずそこから答えを探すべきである。

九州説に第一に必要なのは、
九州に邪馬台国があったという証拠探しである。






現段階の成果
考古学文献史学
成果 大和王権成立の
過程がわかった

考古学の目的は果たした。
九州説の場合・成果ゼロ
まだ卑弥呼の墓は見つかっていない。
畿内説の場合・進歩あり
卑弥呼の墓は大和だろう。
限界 大和王権が、
邪馬台国と同一かは不明

考古学は明らかにできない。
その役目も負わない。
終わりの無い議論
畿内説・九州説と別れてる限り、
研究者の意見の集約は出来ず、
邪馬台国の位置は永遠に議論が続く。
今後 地道な発掘の続行
邪馬台国の所在地として、
何か決め手が見つかるかも?
金印とか看板とか。
九州説の場合
持論の再検討、証拠探し。
畿内説の場合
考古学との摺り合わせ。




つづき
今回はまた、九州説に対して厳しくないかい?

かおる
九州説の方々も、物証を直視して冷静に持論を再検討して欲しいと思ってるわけです。
畿内説も、完全に正しいとまでは言い切れないわけですから。
つづき
九州説も、世間では、まだまだ人気の説じゃ、お手柔らかにたのむよ。

かおる
世間的にどうのとか、好き嫌いを言っていては、学問とは呼べません。
もっと、論理的に考えてください。 でなければ、実りのある議論は出来ません。
つづき
いいや、かおる君。 邪馬台国問題は論理では片付けられぬぞ?
日本人のロマンなのじゃ! 邪馬台国は、皆の心の中にあるまぼろしなのじゃ!
かおる
それを言われちゃあ、おしまいなんですけどね。




















付録・年表




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