邪馬台国問題の本旨 日本が、いつの時代から、 まとまりのある一つの国になったのか? 大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか? 「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、 謎を解く重要な史料だった。 |
「隋書」東夷伝 倭国伝 倭國 在百濟 新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居 魏時 譯通中國 三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數 但計以日 其國境東西五月行 南北三月行 各至於海 其地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 ----------------------------------------------------------- 656年に完成した隋書では、 「邪靡堆(大和)」は、魏志のいう「邪馬臺」であると明記されている。 「隋書」の書かれた唐の時代には、使者が何度も往来し、 互いの国の歴史を研究し合っていたはず。 魏志倭人伝にある邪馬台国は、大和国であるという、 そのような共通認識が日中間にあったことが伺える。 (事実かどうかは別問題) |
新井白石 (1657-1725) 江戸時代中期の学者である新井白石は、 その著書「古史通惑問」の中で、 邪馬台国とは大和国であると説いたという。 |
本居宣長 (1730-1801) 古事記を解読し「古事記伝」を著す。 宣長は尊王攘夷の立場から、 邪馬台国=大和国では、 天皇の祖先が中国に朝貢していたことになるので、 それを否定した。 邪馬台国は九州にあったとし、 中国に朝貢していた卑弥呼は、九州の女酋だと説いた。 |
神武東征神話 紀元前660年に、 九州・日向からカムヤマトイワレヒコが大和に東征し、 初代天皇として即位した。 ↓ だから、大和に王権が生まれた。 それ以上でも、それ以下でも無い。 考えたり批判することは許さない! (大本営) |
皇国史観への批判 神武東征神話は、あくまで神話。 史実として扱わない。 ↓ 畿内に生まれた豪族が徐々に力をつけて、 ヤマトのクニをつくり、 やがて西日本を支配するまでに至った。 津田左右吉は記紀神話(皇国史観)を批判した。 師の白鳥庫吉は、邪馬台国九州説。 戦後の九州説は、皇国史観否定から始まった。 |
関西の考古学者 畿内で生まれたクニが発展して大和王権になった。 邪馬台国は、大和国のこと。 ↓ 大和王権の歴史を3世紀から認めることになる。 神武東征神話を肯定することにもつながる。 記紀神話を肯定することは、前時代的? でも、地元に邪馬台国があったなら誇らしいよね。 関東の考古学者 邪馬台国と大和王権を結ぶ根拠は無い。 だから、邪馬台国は九州でもおかしくない。 ↓ 記紀神話なんて、奈良時代の作り話なんだから、 神話と歴史が違っていて当然。 大和王権の歴史を、3世紀まで古くしなくてよい。 関西が古代から歴史の中心だったなんて認めがたい。 |
纒向遺跡 奈良県桜井市・三輪山の北西麓に広がる、 JR巻向駅を中心に、東西約2キロ・南北約1.5キロ、面積は3000m2という。 弥生時代末期~古墳時代前期の遺跡。 大和王権の象徴である前方後円墳が作られ始めた頃のもの。 箸墓古墳もその一つ。 後の大和王権と直結する遺跡である。 昔は、太田遺跡・勝山遺跡として小規模な遺跡群として、 あまり注目はされていなかったが、発掘が進むにつれて、 大溝(運河)導水施設跡の発見などから、 計画性をもって作られた遺跡であることがわかってきた。 作られたのは高床式倉庫群で、 竪穴式住居跡は見つかっていないことから、 多くの人が定住していたとは言えず、 邪馬台国の「王都」とは呼べないのではないか?という批判もある。 |
邪馬台国問題の本旨 日本が、いつの時代から、 まとまりのある一つの国になったのか? 大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか? 「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、 謎を解く重要な史料だった。 ↓ 纒向遺跡の発見 近畿を取り巻くクニグニの人々は、 弥生時代末期に、 纒向を中心に集まりはじめた。 その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、 後の大和朝廷まで繋がっていく。 魏志倭人伝を解釈しなくとも 大和王権成立までの流れが解明されてきた。 邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、 「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」 という問題は解決した。 |
邪馬台国はどこにあったのか? | |
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九州説 邪馬台国は九州だ! | 畿内説 邪馬台国は畿内・奈良だ! |
王都ならば鉄器が多いはず? | |
九州は鉄器が多い 王都としての権威が大きい! | 奈良は鉄器が乏しい 王都としての権威が無い? |
邪馬台国は九州で決まりだね! では、九州に邪馬台国があったという前提で 大和王権誕生の経緯は? |
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大和王権誕生の経緯が 不明だった | 大和王権誕生の経緯が 不明だった |
邪馬台国が東遷して、 大和王権になった? <東遷説> |
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大和王権誕生の経緯は 東遷説でよし! | その後、纒向遺跡の発掘で、 大和王権誕生の経緯が 解明されてきた |
だったら邪馬台国も 初めから畿内でいいじゃん? <畿内説> |
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絶対だめ! 邪馬台国は九州なの! | でも、大和王権の存在も事実 |
九州の邪馬台国と 畿内の大和王権が 同時に存在した? <九州説> |
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それでよし! 邪馬台国は九州だ! | そういう事でも構わない 考古学との齟齬が無ければ |
では、九州に邪馬台国があったという前提で 邪馬台国はどうなった? |
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とにかく、東遷した!<東遷説> 独立を維持した!<九州王朝説> | 邪馬台国は消滅した 畿内の大和王権に併合された |
東遷説・九州王朝説は、 証明の必要がある | 大和王権の九州支配は事実なので、 証明の必要は無い |
現状の論争はどうなの? | |
東遷説は、箸墓古墳を4世紀と主張 箸墓古墳が邪馬台国と同時代だと、東遷説が破綻する。 卑弥呼の死後(248年)に、東遷があってから、 箸墓古墳が作られたことにしたい。 遺跡を古く見積もる考古学の年代遡上を批判し、 年輪年代法もC14測定法認めない。 |
考古学は、箸墓古墳を3世紀と主張 理化学的年代測定、土器編年など、 様々な見地から、箸墓古墳を、 邪馬台国の時代のものだと考えている。 邪馬台国が畿内なら、 卑弥呼の墓は、箸墓古墳と推定される。 |
纒向遺跡が邪馬台国と同時代だと 九州説は破綻するの? |
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九州説は破綻しない 九州の邪馬台国と同時に、 纒向遺跡があっても問題ない。 でも、九州の邪馬台国は消滅しただろう。 東遷説は破綻する 九州の邪馬台国と同時に、 纒向遺跡があっては絶対ダメ! 九州の邪馬台国が畿内に遷都したのだ! | 九州説は破綻しない 纒向遺跡と同時に、 九州に邪馬台国があった可能性は残る。 九州の邪馬台国は、大和王権と併合されただろう。 |
東遷説にとって、 纒向遺跡は邪魔な存在になった。 纒向遺跡は東征後の4世紀でなければならない! |
邪馬台国問題の本旨 日本が、いつの時代から、 まとまりのある一つの国になったのか? 大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか? 「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、 謎を解く重要な史料だった。 ↓ 纒向遺跡の発見 近畿を取り巻くクニグニの人々は、 弥生時代末期に、 纒向を中心に集まりはじめた。 その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、 後の大和朝廷まで繋がっていく。 魏志倭人伝を解釈しなくとも 大和王権成立までの流れが解明されてきた。 邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、 「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」 という問題は解決した。 ↓ 東遷説からの不満 魏志倭人伝を用いて九州説を説いてきた学者の一部は、 考古学の成果に不満を持った。 「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」 という問題は、まだ終わってないぜ! 九州の邪馬台国が東遷して、大和王権になったんだぜ! ……と、騒ぎ出したのである。 |
大和王権に帰順した 九州の女性指導者(女王・巫女) 神夏磯媛(山口県・景行紀) 速津媛(大分県・景行紀) 泉媛(宮崎県・景行紀) 八女津姫(福岡県・景行紀) 田油津媛(山門郡・神功紀) 久津媛(日田郡・豊後国風土記) 五馬媛(五馬・豊後国風土記) 大和朝廷からは、土蜘蛛などと呼ばれていたという。 |
荒神谷遺跡 島根県簸川郡斐川町神庭西谷。 銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本を発掘。 銅剣については、一箇所からの出土では、日本最多となる。 加茂岩倉遺跡 島根県雲南市加茂町岩倉。 39口の銅鐸が発掘された。 銅鐸については、一箇所からの出土では、日本最多となる。 荒神谷遺跡とも近く、 両遺跡から出土した銅鐸に同じ「×」印の刻印がみつかった。 銅矛は九州との繋がりを示唆し、 銅鐸の多さは近畿地方との繋がりを示唆しているだろう。 つまり、出雲は、弥生時代から、 九州・近畿ともに関係が深かった国だった? |
九州説を前提とした、大和王権の誕生の経緯 | |
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<前提> 奈良の纒向遺跡には、環濠や戦闘の痕跡が無い。 平和的に、西日本各地の人や物資が持ち込まれていた。 ここから、大和王権は始まった。 |
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畿内の大王が権力を強めた? | 九州の大王が東遷した? |
九州の女王・卑弥呼が死んだ後、 畿内の大王が権力を増した。 すでに九州~近畿の同盟国が存在していたので、 大和の権力は速やかに西日本に広がった。 畿内で生まれた大和王権のシンボルである、 前方後円墳が、畿内から全国に急速に広まったのは、 周知の事実である。 |
九州の王が押しかけてきたのに、 纒向遺跡に環濠が無く、平和的に作られたのは、 九州の邪馬台国成立の時から、 九州と畿内は友好的同盟国だったと考えるしかない。 九州の王族を、近畿は諸手を挙げて歓迎するほど、 すでに九州と畿内が信頼関係を持ち、仲睦まじく、 九州の邪馬台国連合に、畿内も含まれていた、 という前提条件があれば、東遷説は成り立つ? しかし、証拠が無いので証明は困難。 |
日本書紀には、景行天皇が九州を制圧し、 九州の女酋を帰順させたという記録がある。 |
文献上、この時代の大王が、 平和的に九州から迎えられたという記録は無い。 神武天皇にしろ応神天皇にしろ激しい戦闘があった。 九州の部族は大和朝廷に反抗的だった。 |
考古学上の話 | 魏志倭人伝 | 神話上の話 | 近畿を含む九州説 | 九州限定の九州説 |
高地性集落 弥生時代中・後期に、 九州からの侵攻に備えるように 瀬戸内海沿岸に作られた |
倭国大乱 卑弥呼登場以前に、 倭国は大きく乱れた。 |
神武東征 神武が、九州日向から、 瀬戸内海をルートに 畿内を侵攻し、 初代天皇になる。 |
近畿攻略に成功 九州の一部族が、 近畿に入植した。 九州と連合を築くパイプ役になる。 神武東征のモデル。 |
近畿攻略に失敗 鉄器を持った九州は 鉄器の無い畿内に 勝てなかったらしい? 神武東征神話と齟齬 九州の鉄器優位説と齟齬 |
邪馬台国の範囲 邪馬台国時代の西日本は 互いに物資の交流があったので、 九州と近畿が、 断絶していたとは言えない。 纒向遺跡からは、 西日本~東海各地の土器が出土。 |
7万戸 7万戸という数字は 邪馬台国の 範囲の広さを示す。 |
王の故郷は九州 大和王権の初代大王は、 九州日向から来た。 |
邪馬台国は近畿を含む 邪馬台国連合の範囲は、 考古学の示すとおりに、 九州~近畿を範囲とする 卑弥呼は九州にいた。 九州出身を権威として 九州出身者が大和の王になる。 |
邪馬台国は九州だけ 邪馬台国の範囲は、 九州だけとする。 考古学と齟齬 |
邪馬台国の後 畿内で生まれた王権が 西日本を制覇する 前方後円墳が作られる |
男王が立つ 卑弥呼の死後、 男王が立つが、 台与が後を継ぐ その後消息不明 |
大和が九州征伐 景行天皇が 九州を制圧する 九州の女酋を帰順させる |
大和が権力を得た 九州の卑弥呼の死で 畿内の王が権力奪取。 そして大和の王が、 九州の女王・台与?を帰順させる。 邪馬台国から大和王権に変貌。 |
東遷説 神武東征のモデルは 邪馬台国以後の出来事で 九州の邪馬台国が東遷した 考古学・文献と齟齬 |
おおむね、 考古学や文献と 齟齬が少ない? |
いろいろと、 考古学や文献と 齟齬があるように見える? |
分類 | 畿内説 | 畿内説でも女王国は別 | 近畿を含む九州説 | 九州限定の九州説 |
図 | ||||
勢力範囲 | 大和国を首都として、 西日本全体の連合国が 邪馬台国。 |
大和国を首都として、 西日本全体の連合国が 邪馬台国。 |
九州を首都として、 西日本全体の連合国が 邪馬台国。 |
九州の中だけの連合国が 邪馬台国。 |
卑弥呼? | 卑弥呼は大和にいた | 卑弥呼は大和以外にいた? | 卑弥呼は九州にいた | 卑弥呼は九州にいた |
その後 | 邪馬台国は、 大和王権につながる |
邪馬台国は、 大和王権につながる |
卑弥呼が死んだ後、 権力構造が大和優位になり、 大和王権につながる |
邪馬台国は、東遷して 大和王権につながったとする もしくは消滅した |
認知度 | 考古学では一般的 | 聞いたことが無い | かおる君の九州説 | 一般的な九州説 |
備考 | 考古学的には、 邪馬台国時代の西日本が 相互に交流を深めていた。 九州と畿内が断絶していたとは 言えない。 |
邪馬台国の首都が大和でも、 卑弥呼(女王国)が他の地にいた 可能性はある。 |
邪馬台国の首都が九州でも、 勢力範囲に近畿が含まれていても おかしくないはず。 大和王権への移行も容易。 |
大和王権誕生後は、 この場合、邪馬台国が 消滅したと考えるならいいが、 東遷説は成立困難。 |
疑問点 | 纒向遺跡は環濠がなく、 卑弥呼の居城の描写とは食い違う |
卑弥呼の居城と 首都が離れすぎ? |
卑弥呼を九州に置くことで、 畿内説の疑問点を解消 |
九州は、他の地域とも 交流していたはず。 |
邪馬台国問題の本旨 日本が、いつの時代から、 まとまりのある一つの国になったのか? 大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか? 「邪馬台国」が登場する魏志倭人伝は、 謎を解く重要な史料だった。 ↓ 纒向遺跡の発見 近畿を取り巻くクニグニの人々は、 弥生時代末期に、 纒向を中心に集まりはじめた。 その動きは、前方後円墳を作る大和王権となり、 後の大和朝廷まで繋がっていく。 魏志倭人伝を解釈しなくとも 大和王権成立までの流れが解明されてきた。 邪馬台国が、大和王権と同一かどうかは別問題だが、 「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」 という問題は解決した。 ↓ 東遷説からの不満 魏志倭人伝を用いて九州説を説いてきた学者の一部は、 考古学の成果に不満を持った。 「大和朝廷につながる、統一政権がいつどのように成立したのか?」 という問題は、まだ終わってないぜ! 九州の邪馬台国が東遷して、大和王権になったんだぜ! ……と、騒ぎ出したのである。 ↓ 研究者の役割とは? 文献史学からは、纒向に、人や物が、 どのように集まってきたか、様子を知ることは出来なかった。 考古学からは、纒向から始まる大和王権が、 魏から「邪馬台国」と呼ばれていたかどうかは知ることは出来ない。 九州に邪馬台国という国があった可能性は残る。 文献史学に求められることは、 九州に「邪馬台国」という小国があったのか、 畿内の大和王権と同一だったのか、 まずそこから答えを探すべきである。 九州説に第一に必要なのは、 九州に邪馬台国があったという証拠探しである。 |
現段階の成果 | ||
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考古学 | 文献史学 | |
成果 | 大和王権成立の 過程がわかった 考古学の目的は果たした。 |
九州説の場合・成果ゼロ まだ卑弥呼の墓は見つかっていない。 畿内説の場合・進歩あり 卑弥呼の墓は大和だろう。 |
限界 | 大和王権が、 邪馬台国と同一かは不明 考古学は明らかにできない。 その役目も負わない。 |
終わりの無い議論 畿内説・九州説と別れてる限り、 研究者の意見の集約は出来ず、 邪馬台国の位置は永遠に議論が続く。 |
今後 | 地道な発掘の続行 邪馬台国の所在地として、 何か決め手が見つかるかも? 金印とか看板とか。 |
九州説の場合 持論の再検討、証拠探し。 畿内説の場合 考古学との摺り合わせ。 |