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失われし神話の故里・紀伊


December.19.2006








かおる
紀伊が、神話の故里とは、どういう意味でしょう?

つづき
前回、論証を試みたように、阿波や忌部は、日本神話の深層に絡んでおった。



忌部は、中臣と供に、王族の祭祀に関わってきた氏族。

天の岩戸で、アマテラスを招きだしたのも、
天孫降臨で、天孫に随行したのも、
忌部・中臣・猿女君を中心とした氏族だという。


天の岩戸で活躍した氏族天孫降臨の五伴緒
中臣
祖は天児屋命

忌部
祖は太玉命

猿女君
祖は天鈿女命

鏡作
祖は石凝姥命


祖は天手力雄神

中臣
祖は天児屋命

忌部
祖は太玉命

猿女君
祖は天鈿女命

鏡作
祖は石凝姥命

玉祖
祖は玉屋命


忌部がいなければ、天岩戸神話も、天孫降臨神話も、
生まれなかったことになる?

イザナギ・イザナミの国生み神話も、淡路島から始まっている。






かおる
忌部が絡んでるにせよ、他の氏族もいるのですから、関わり具合は五分の一でしょう?

つづき
忌部は、その中でも供物を奉る重要な氏族じゃった。 重要であったということは、
神話の生まれた舞台は、阿波を中心とした地域だったのではないかね?
かおる
阿波の周辺で日本神話が生まれた……? ちょっとまってください!
まさか、天岩戸神話の舞台が、四国だったなんて言わないでしょうね~?
つづき
四国とは言わぬが、忌部が拠点とした阿波中心の瀬戸内海沿岸地域だったとは言えよう。
天孫降臨」の舞台は、「日向」だったとしても、「天岩戸神話」の舞台は、恐らく、「紀伊」である。
かおる
ええええええええええ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっっっっっ!!!!!??????

つづき
なにかね?

かおる
しれっと、突拍子も無いデンパを飛ばさないでください! びっくりするじゃないですか?!

つづき
天岩戸神話の舞台が紀伊では不都合かね?

かおる
いや、不都合以前に、もう、絶対ありえないし。 紀伊だなんて!

つづき
とはいえ、紀伊には、天岩戸神話に関係する、日前神宮・國懸神宮 が、あるのじゃが。






天岩戸神話と関係する神社
日前神宮・國懸神宮
(紀伊國一之宮)


日前神宮
(ひのくまじんぐう)

祭神
日前大神(ひのくまのおおかみ)
御神体
日像鏡(ひがたのかがみ)

相殿
思兼命(おもいかねのみこと)
石凝姥命(いしこりどめのみこと)


神武東征で、日像鏡を天道根命が賜り祀ったという。
天道根命は、紀伊国造・紀氏の祖。
天道根命は、神皇産霊尊の子孫。




國懸神宮
(くにかかすじんぐう)

祭神
國懸大神(くにかかすのおおかみ)
御神体
日矛鏡(ひぼこのかがみ)

相殿
玉祖命(たまおやのみこと)
明立天御影命(あけたつあめのみかげのみこと)
鈿女命(うづめのみこと)


日前國懸大神は、天照大御神の御別名という。




日本書記では、天の岩戸からアマテラスを誘い出すときに、
先に作られたのが、日前神宮の日像鏡で、(一書では、日矛)
出来が良くなかったので、次に作られた鏡が、
伊勢神宮の三種の神器のひとつの鏡だという。


日前神宮の鏡が、最初に作られた神鏡であり、
伊勢神宮の鏡は、2番目に作られたもの。








かおる
それは、天孫降臨・神武東征の後に、三種の神器に次ぐ宝鏡として日像鏡を紀氏に預けられて奉祀したのでしょう?
天岩戸神話の発祥が紀伊だということにはなりませんよ?
つづき
なぜ、三種の神器に次ぐ宝鏡を、紀氏に預けたのであろうか?

かおる
大和と紀伊国が同盟したからでしょう?

つづき
いつのことかな?

かおる
ええと、神武東征のときは、紀伊国とも戦ってましたが、崇神天皇は紀伊国から妃をもらってます。
崇神天皇の頃に、紀伊は大和に服従したのでしょう。 同盟の記念に鏡を受け取ったのでは?
つづき
すると紀伊は、大和と同盟した他の諸国よりも上位であり、ナンバー2じゃったということかな?
神武の故郷の日向よりも、紀伊のほうが上位じゃったのかのお?
かおる
そんなこと知りませんよ。 何か大人の事情でもあったんじゃないですか?

つづき
崇神天皇の頃では、故郷の日向とは疎遠になっていたのかも知れぬな。

かおる
そうそう、そんな所でしょうね。
遠くの故地よりも、近くの同盟国の方が重要というものです。
つづき
とは、言うものの……。


天岩戸神話の発祥の地が、実際は、
日前神宮・國懸神宮のある紀伊だったから
ではないのかね?


紀国造の祖、天道根命の「天道」は、太陽の意味では?
紀伊は、天照大神以前の、太陽信仰の聖地だったのでは?




かおる
違いますってば!
どうして、いつもいつも、そんな根拠の無い妄想を展開しようとなさるんですか?!
つづき
しかし、事実として、天岩戸神話で最初に作られた鏡が、日前神宮に祀られている鏡じゃという。
次に作られた鏡が伊勢神宮に祀られている鏡じゃ。
かおる
確かに、そういうふうに、伝承されてますね?

つづき
では、3番目に作られた神鏡は、いつ、どこで作られたものかな?

かおる
ええと……?

つづき
大和にある鏡作坐天照御魂神社ではないかね?





日前神宮・伊勢神宮に次ぐ、三番目の神鏡は、
奈良県・鏡作坐天照御魂神社で作られた?


鏡作坐天照御魂神社
(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)

祭神

天照国照彦天火明命 石凝姥命 天糠戸命

一説には天照大神・天糠戸神・石凝姥命とも
一説には天照国照彦天火明命・石凝姥命・天児屋命とも


崇神天皇は、皇居に三種の神器の一つ、八咫鏡を置くのは、
畏れ多いとして、笠縫邑に祀らせた。
その代わりの神鏡を鋳造した像鏡が御神体という。

唐子・鍵遺跡の近くにあり、
4~5世紀の鏡作工房があったとされ、
三角縁神獣鏡は、この地で作られたという説がある。






日前神宮の鏡が、最初に作られた神鏡であり、
伊勢神宮の鏡が、2番目に作られ、
鏡作神社の鏡が、3番目のレプリカである?

上位三つの神鏡が、近畿のみで祀られている。






かおる
よしんば、そうだとしても、紀伊が天岩戸神話の舞台かどうかとは関係ありませんよ?

つづき
神鏡を作った石凝姥命(いしこりどめ)という鏡作の祖がいるわけじゃが、
これは、石凝戸邊命・伊斯許理度売命とも書く。

つまり「戸辺(とへ)」「どめ(度売)」という呼び名で伝わった人物である。
音韻的には、「とべ」「とめ」という変化形もあったじゃろう。



石凝姥命・石凝戸邊命・伊斯許理度売命は、
「とへ・とべ・とめ・どめ」系の名前だった?


とへ・とべ・とめ・どめ」系の名前

石凝戸邊神代・「石凝姥命」鏡作の祖
名草戸畔神武紀・紀国・名草邑の女族
丹敷戸畔神武紀・熊野・荒坂の津の女族
新城戸畔神武紀・層富縣・波哆・丘岬
荒河戸畔崇神紀・紀伊
氷香戸邊崇神紀・丹波・氷上
刈幡戸邊垂仁紀・山背
綺戸邊垂仁紀・山背大國不遲の女
難斗米神功紀・魏志倭人伝の引用
天戸目
建斗米
妙斗米
天忍人(天押人)の系譜
尾張氏系図
八阪刀賣神諏訪大社下社の祭神 (上社は建御名方神)
級長戸邊風神・級長津彦命・伊勢神宮風宮
鳥羽三重県の地名

とへ・とべ・とめ・どめ」系の名前は、
崇神・垂仁時代の近畿中心の地域で使われた名前?





高天原で鏡を作ったという、
石凝姥命」も、
実は、近畿出身の人だった?






かおる
おっとー! ちょっとそれはどうだかわかりませんが、
よしんば、そうだとしても、紀伊が天岩戸神話の舞台かどうかとは関係ありません!
つづき
天岩戸神話は、「日蝕」をモチーフにしたと言われておるな?

かおる
ええ、まあ、一般的には「日蝕」に対する畏怖を表現したものと考えられてますね。
前触れもなく太陽が欠けるわけですから、昔の人は恐れおののいたでしょう。
つづき
というわけで、日蝕を記録した箇所を日本書記の中で探してみたのじゃが。



日本書記に見られる日蝕の記録

神代アマテラスの、天の岩戸隠れ。
神功紀皇后が紀伊国にいるとき、夜のような暗さになる。
夜のような暗さとなって何日も経った。
皇后は、「この変事は何のせいだ?」と、紀直の祖、豊耳に問うた。
一人の翁が言うには、「このような変事を”阿豆那比の罪”というそうです」
”小竹の祝”と、”天野の祝”を仲が良いからと合葬したのが原因だという。
それで、あらためて、墓を別々にしたところ、日が現れた。
舒明紀 八年一月一日、九年三月二日に日蝕。
天武紀九年十一月一日に日蝕。






















かおる
あれ? これだけですか?

つづき
うむ……。 日蝕という大イベントなら、もっと記録が残っておると思ったのじゃが、意外に少ないのお。

かおる
師匠のことだから、たぶん見落としがあるのだと思いますけどね~。
それにしても、数十年おきには、日蝕はあるものなのに。
つづき
案外、昔の人々も、日蝕はありふれたものと考えていたのかも知れぬ。

かおる
いや~天文学的知識が無いと、やっぱり、日蝕は怖いと思いますよ?
神功紀では、”阿豆那比の罪”などと畏れられてるようですし。


でも、「夜のような暗さとなって何日も経った」わけだから、
日蝕では無いのかも?



つづき
いや、天文学的知識が無いゆえの誇張した表現じゃろうな。


”阿豆那比の罪”とは、日蝕のことじゃろう。

天文学的知識を、ある時期に授けられたとすれば、それ以降の日蝕は、
特別な驚きも無く、記録もされなくなるじゃろうて。


かおる
ある時期とは?

つづき
神功紀で、間違いあるまい。

かおる
ほほぅ。 たしかに、神功紀以降、日蝕の記録は淡白になりましたけども。
根拠はそれだけですか?
つづき
日本書紀の応神紀を読んで見よ。 面白い名前の人物がおるじゃろう。







日觸使主命


「日觸使主命」は、和邇氏の系譜の人物である。
「日觸使主命」の娘、宮道宅媛と、小<扁瓦>媛は、応神天皇の妃となる。
(日本書記)


日蝕(ひふれ)に由来するという、
「日牟禮八幡宮」が滋賀県にある。
神功皇后の息長氏・和邇氏の拠点であろう。
祭神は、譽田別尊・息長足姫尊・比賣神。
比賣神は、田心姫命・湍津姫神・市杵嶋姫命の御神霊。この三姫神は玉依姫とも。
宇佐神宮の祭神と同じか?






かおる
日蝕使主命」とは、また仰々しい名前ですね~。
和邇氏の系譜というと、渡来系氏族でしょうか?
つづき
うむ。 おそらく、渡来系の日蝕使主命は、天文学的知識を持ち合わせており、
日蝕の原因が、月が太陽を隠す自然現象であることを知り、予測までをもしていた可能性があろう。

日蝕使主命によってもたらされた天文学的知識によって、
日蝕は、恐れるに足らぬということを、倭人は学んだことじゃろう。
神功紀より、日蝕の記録が無いのはそのためじゃ。

日蝕使主命は、娘を応神天皇の妃に出しているので、
神功皇后と同時代の人物である。
紀国で神功皇后が経験した「阿豆那比の罪」とは、日蝕のことで間違いあるまい。



紀国」は、
神功紀の日蝕の舞台なのである。



かおる
ちょっとまってくださいよ?
神功皇后が紀国で日蝕を経験したことと、天岩戸神話は関係ないでしょ~?
つづき
はたして、神功紀の日蝕と、神代の天岩戸神話は無関係と言えるかな?




天岩戸神話と、神功紀の日蝕変事の比較

神代アマテラスの、天の岩戸隠れ。
スサノヲが、高天原で暴れたので、
天照大神が天の岩屋へ入り、岩戸を閉じた。
八十万の神は、思兼神と相談した。
常世の長鳴鳥を集めて鳴かせた。
手力雄神を岩戸の脇に立たせた。
中臣連の遠祖の天児屋命・忌部の遠祖の太玉神は、
天香山の五百箇の真坂樹を掘り、上枝に八阪瓊の五百箇の御統をかけ、
中枝に八咫鏡をかけ、下枝には青和幣・白和幣・和幣をかけて祈祷した。
猿女君遠祖の天鈿女命は、茅纏の矛を手に持ち、石窟の前で踊った。

一書(第一)
石凝姥が、天香山の金を採って日矛を作らせた。
鹿の皮を丸剥ぎにしてフイゴを作った。
これを用いて作らせた神は、紀伊国においでになる日前神である。

一書(第二)
鏡作部の遠祖の天糠戸神に鏡を作らせた。
忌部の遠祖の太玉神に幣をつくらせた。
玉造部の遠祖の豊玉神に玉をつくらせた。
山雷者に、五百箇の真坂樹の八十玉籤を採らせた。
野槌者に、五百箇の野薦の八十玉籤を採らせた。
このすべての物を持ち寄った。
中臣連の遠祖の天児屋命に神祝を述べた。
そこで日神が岩戸をあけられた。
このとき鏡が岩戸に当たって傷がついた。
これが、伊勢にお祀りしてある大神である。

一書(第三)
中臣連の遠祖の輿台産霊の子、天児屋命に祈祷させた。
天香山の榊の上枝に、鏡作の遠祖・天抜戸の子、石凝戸辺命の作った八咫鏡をかけた。
中枝に、玉作遠祖・伊奘諾尊の子・天明玉の作った八阪瓊の曲玉をかけた。
下枝に、粟國忌部遠祖・天日鷲の作った木棉をかけ、忌部首遠祖・大玉命に持たせて祈らせた。

天照大神は岩戸を出てきた。
スサノヲは、高天原を追われた。
神功紀皇后が紀伊国にいるとき、夜のような暗さになる。
皇后は、「この変事は何のせいだ?」と、紀直の祖、豊耳に問うた。
一人の翁が言うには、「このような変事を”阿豆那比の罪”というそうです」
”小竹の祝”と、”天野の祝”を仲が良いからと合葬したのが原因だという。
それで、あらためて、墓を別々にしたところ、日が現れた。




かおる
べつに、何の関係も無いようですが?

つづき
そこじゃよ。 かおる君。


神功皇后が、日蝕を体験した紀国には、すでに日前神宮があり、
天岩戸神話も、数々の形で、伝承されていたはずではないかね?

それなのに、「阿豆那比之罪」と表現されるのは、おかしいのでは無いか?
天照大神の天岩戸隠れは、大イベントであり、
日前神宮のある紀国に住む老人や、天皇家なら知らぬものはいないはず。
なぜ誰も一言も、天照大神の天岩戸隠れを話題にしなかったのじゃろうな?
神功紀に、天照大神への言及はあるのにじゃ。



日蝕があれば、故事にならい、
天照大神を祀るのが筋ではないのか?






かおる
あれあれ?
そういえば?
つづき
まるで、神功皇后の御世には、天岩戸神話そのものが無かったようではないか?

かおる
日蝕使主命も、神功皇后に日蝕のことを話さなかったのでしょうか?
それとも、あえて日蝕には触れずに「阿豆那比之罪」という戒めを説話として残したのでしょうか?
つづき
ついでに、奇妙なこともある。


日本書紀で日蝕を記録した、神功皇后と舒明天皇の名前は、どちらも「息長」を冠している。
息長」を冠している王は、この二人だけ。

神功皇后-息長帯比売
舒明天皇-息長足日広額


息長は、「日蝕」に関心があったのかっ?

舒明紀には、「彗星・流星」の観測記録もある。



かおる
ただの偶然、というだけかも知れませんよ?

つづき
実は、まだ奇妙なことがある。




神功皇后が日蝕を見た紀伊国にある國懸神宮の御神体は「日矛」というが、
古事記(応神紀)では、その昔、新羅から「天日矛」が来日したという記録がある。
天日矛」は、応神天皇の母・神功皇后の母方の祖だと伝えられている。


息長氏族の祖神が、天日矛と言ってもいい。



かおる
偶然ですよ~。 「日矛」なんてありふれた名前なんじゃないですか?

つづき
日矛」という固有名詞の名前は、他には見当たらぬのじゃが……。




ぶっちゃけ、國懸神宮の御神体「日矛」は、
新羅王子「天日矛」を祀ったものでは無いのか?

神功皇后が、紀伊にいたときに祀らせた?





かおる
いやいや、バカな事言わないでください! ただの偶然です! きっとそうです!

つづき
そうかのう? では、これはどうじゃ?




天岩戸神話で鏡を作ったのは、一書では鏡作部の遠祖の「天糠戸神」(石凝姥神の父神という)
舒明天皇-息長足日広額尊の母は、「糠手姫


」と、「」は、似ているような気がする。




かおる
ぶっぶ~!! 残念でした!! 「」の一字しか似てませんよ!
だいたい、「糠(ぬか)」と、は、関係ないでしょう?
つづき
ところが、そうでもない。
ぬか」という名を持つ人名は少なく、「」とも関係が深いのじゃぞ。






田王(ぬかたのおおきみ)は、王の女。
(額田王は、大海人皇子(天武天皇)が娶った。)


(あまのぬかと)は、作の祖。




ぬか」は、と関係する言葉なのか?


日本書記に見られる「」の字を使った名前
(「糠・額」を使った名前は、非常に限られている。)

神上神下神武綏靖安寧懿徳孝昭孝安孝霊孝元開化崇神垂仁景行成務仲哀神功応神仁徳履中反正允恭安康雄略清寧顕宗仁賢武烈継体安閑宣化欽明敏達用明崇峻推古舒明皇極孝徳斉明天智天武持統
天糠戸                         和珥臣
日爪女
糠君娘

春日山田皇女
    春日日抓臣女
糠子

東漢氏直糠兒
糠手姫

大伴糠手子連
 阪本臣糠手

大伴糠手連女
小手子
阪本臣糠手

大河内直
糠手
糠手姫    舍人造
糠虫
 
天津彦根命
茨城國造
額田部連等遠祖
                額田大中彦皇子額田大中彦皇子       倭國山邊郡
額田邑
熟皮高麗
    額田部連   額田部皇女

額田部連比羅夫
息長足日廣額天皇 額田部連甥為法頭

額田部湯坐連闕名秦吾寺等
  鏡王女額田姫王

額田部連
 


天津彦根命系-額田部直・大河内直
和邇系-額田国造・春日
紀臣系-坂本
息長系(神功・応神)-額田大中彦皇子
額田王は、額田部姫王とも、
藤原鎌足(中臣鎌足)の妻の「鏡姫王」の妹とも。


」の字を使った名前は、渡来系氏族っぽい?
」と、「」と、「」は、似ているような気がする。


ぬかづく」と、「屈む(かがむ)」「(かがみ)」も似ている気がする。
鋳型から、鏡を「抜く」という意味の言葉かも知れない。



紀伊には、日矛鏡を祀る國懸神宮があり、
新羅皇子・天日矛を祖とする神功皇后は、紀伊で日蝕を見ており、
神功皇后(息長帯比売)と同じ「息長」の名を持つ、
舒明天皇の諡号も「」の字を含んでいる。

息長足日廣
(おきながたらしひひろぬか)
(舒明天皇)


舒明天皇の母は、「糠手姫

仁賢天皇の妃・和珥臣日爪の女は「糠君娘
または、和珥臣「日觸」とも?

欽明天皇は、五人の妃を迎えた。
その一人が「日影皇女」という。
檜隈高田天皇(宣化天皇)の女というが、詳細は不明らしい。
檜隈(ひのくま)は、「日前」に通じる言葉。
最後に春日日抓臣の女「糠子」を妃にしている。


そして、舒明天皇の皇子の争いから、
壬申の乱へと歴史は動いていく。

勝利したのは、天武天皇であり、
日本書紀の、日蝕の記録は、
神功紀・舒明紀・天武紀だけ?



日本書記で、
日蝕・鏡のキーワードを探ると、
息長」「」が、
浮かび上がる?


日本書記で、
日蝕を記録した実際の場所が、
神功皇后(息長帯比売)の立ち寄った、
紀伊」なのである。






かおる
なんかも~、文献を都合よく組み合わせて解釈してるだけなんじゃないですか~?
天岩戸神話も、紀伊も、神功皇后も、全部関係なんてありませんよ!
つづき
そうかのう? 紀伊と、神功皇后を結びつけるもう一人の重要人物がいるわけじゃが……。

かおる
紀伊と、神功皇后を結びつける重要人物って?
どうせ、師匠の妄想の産物でしょう?
つづき
妄想と思うなら構わんが……その人物とは、武内宿禰じゃ。











武内宿禰










武内宿禰と、和邇氏は、神功皇后の側近である。

天岩戸神話で鏡を作ったのは鏡作祖・天糠戸(あまのぬかと)。
天武紀の額田王(ぬかたのおおきみ)の父は、鏡王という。
額田国造は、和邇氏の系譜。
和邇氏の系譜の日蝕使主命の娘は、神功皇后の子(応神天皇)の妃。

紀臣氏と、額田氏は、
武内宿禰を祖としている。

武内宿禰の母は、
紀国造・紀氏・日前國懸神宮神職」の系譜である。

國懸神宮の御神体「日矛」は、なぜか神功皇后の祖の新羅王子「天日矛」と同じ名前。

天日矛は、近江国の吾名邑に住んだ。
近江国の鏡邑の谷の陶人(すえひと)は、天日矛に従った。



武内宿禰の活躍する時代である、
神功紀の、日蝕の記録や、
天岩戸神話にまつわるが、
武内宿禰の系譜の紀伊・日前神宮にあるのは、
偶然だろうか?










かおる
偶然です! すべて偶然です!


天岩戸神話に登場する石凝姥の「とめ」という名前が近畿に多くても、
神鏡の上位3枚が近畿で祀られていても、
鏡作の祖の天糠戸が「ぬか」という名前で、
鏡王の女の、額田王と同じ「ぬか」であっても、それが鏡と関係する証拠は無いですし、
「糠(ぬか)」の名前を持つ春日・東漢が、和邇と同じ渡来系っぽくても、
額田・紀臣・坂本臣が同じ武内宿禰を祖とする近縁の氏族でも、
和邇氏の系譜に、日蝕使主命がいたとしても、
日蝕使主命の娘が神功皇后の子(応神天皇)の妃であっても、
武内宿禰を側近に持つ神功皇后が紀伊で日蝕を見たとしても、
武内宿禰の母が、紀国造・紀氏・日前國懸神宮神職の系譜であっても、
天糠戸の子の石凝姥が「日矛」を作ったとしても、
神功皇后の祖の新羅王子「天日矛」とは関係無いですし、
トータルとして、天糠戸が鏡を作った天岩戸神話が、紀伊と関連があるという根拠にはなりませんよっ!

まして、天岩戸神話が、
紀伊で日蝕を目撃した武内宿禰の創作だったなんてとても信じられません!


つづき
そこまでは言っておらぬが?














付録・年表




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