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阿波と消えた超古代海人王国


December.11.2006








つづき
今回は、「阿波」の実像に迫ってみようと思う。

かおる
阿波」というと 今で言う、「四国・徳島」あたりのことでしょうか?
何か、海人王国なんてありましたっけ?
つづき
わしの言霊理論では、阿波こそが大和王権の楚ということになる。

かおる
またまた~。 阿波と日本古代史とどんな関係があるのでしょう?

つづき
ずっと前にも語ったように、「阿波(アハ)」とは、「海人(アマ)」の語源であり、
天照大神(アマテラス)」を祖神とする天皇家へと受け継がれる血脈の源流の地なのじゃ。


あは(泡/阿波)」→「あぶく(泡)」→「あびる・あみる(浴み)」→「あま(海人/天)」


あは」→「あわ

」→「(倭人)」




中国人は、日本語の「」に、漢字の「」を当てた。
日本人は、日本語の「あま」に、漢字の「」を当てた。

参考コラム



」「あま」は、どちらも、
あは」から派生した海人を意味する言葉であり、
同時に、大王を意味する言葉でもあった。


「新唐書」-「東夷伝」日本伝には、
「其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城」という記述がある。

阿毎(アメ)」を名乗る王の、初めての名は「天(アメ)御中主」だったという。
日本情勢を、そのように中国は認識していたのである。
ここには、外国から王家が日本に来たという記述は見られない。

あは(阿波)」→「あま(海人)」→「あめ(天皇・大王)」




かおる
そんなしょうもないダジャレで、古代史の謎がどう解けると言うのでしょうかね?

つづき
ダジャレではない! 言霊の解析である!!
その昔、倭人と言われた者達は、海人のことであり、四国・瀬戸内海沿岸がその活躍の舞台であったじゃろう。



」は海(あは)の言葉?
」は、陸(をか)の言葉?





イザナギ・イザナミが最初に産んだ島は「淡路島(あはぢしま)
が、なぜか、失敗とされ、「吾恥(あはぢ)」という言葉が出来た。


カグツチを生んで死んだイザナミは、イヅモとハハキの堺のヒバの山に葬られた。
イザナギは、カグツチを殺すと、そこから八柱の山津見神が生まれた。
斬った刀の名は、アメノヲハハリ(天之尾羽張)と言う。(古事記)


カグツチを生んで死んだイザナミは、紀伊国熊野有馬村に葬った。(日本書紀・一書)


ヨミの国から戻ったイザナギは、禊をするために、
筑紫の日向の橘の小門(瀬戸)の、アハキハラ(阿波岐原)へ行き、
そこで、アマテラス・スサノヲ・ツクヨミを生んだ。(古事記)


イザナギは、ヨミの国へイザナミに会いに行くが、ウジのわいた姿に絶望して逃げ帰る。


ヨミの国から戻ったイザナギは、禊をするために、
阿波の水門と速吸名門(浪速国=難波?)を見たが潮流が激しかったので、
日向の水門に向かった。(日本書記・一書)


イザナギは、阿波~出雲~日向と、瀬戸内海~日本海沿岸をテリトリーとしていた海人のようである。




かおる
名前が似てるからって、まるで阿波(あは)が天皇家(あま)のルーツみたいな話に持っていくのは強引すぎですよ~?
国生み神話にしても、もともと阿波地方の神話を、後世に日本神話に組み込んだけかもしれません。
つづき
日本の創世神話として、阿波地方の神話を組み込んだということは、
阿波勢力は、大和朝廷に強大な影響力を持っていたということになろうな?
かおる
そんな、大げさな~。 朝廷に影響力を持った阿波勢力なんてあるわけないでしょう?

つづき
ところがそうではない。 阿波勢力が居なければ、天皇家も生まれなかったといってよい。

かおる
ええ~? 一体なんですか~? そんなすごい阿波勢力ってのは?

つづき
忌部」じゃ。



日本神話に登場する氏族達
忌部は、天の岩戸、天孫降臨など、
重要な局面にその名を留めている。




日本書紀古事記古語拾遺文献
阿曇(あずみ)
祖は大綿津見神(海神)
阿曇(あずみ)
祖は大綿津見神(海神)
中臣
祖は神産霊神・天児屋命

天津彦尊
(天津日高日子番能邇邇芸命?)
(天皇の祖神)
祖は高皇産霊神
母は栲幡千々姫命

大伴
祖は天津彦尊の子の天忍日命

斎部(忌部)
祖は天津彦尊の子の天太玉命
(古語拾遺では、
大伴・忌部の祖は天孫と同族?)

以下、天太玉命が率いる氏族
忌部(阿波国)
祖は天日鷲命
忌部(讃岐国)
祖は手置帆負命
忌部(紀伊国)
祖は彦狭知命
玉作(出雲国)
祖は櫛明玉命
忌部(筑紫国・伊勢国)
祖は天目一箇命
神代
三女神(筑紫の海神)

出雲土師
祖は天穂日命

凡川内直
山代

祖は天津彦根

正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
活津彦根
熊野櫞樟日
宗像君(海人)
祖は多紀理毘売命
市寸島売命
田寸津比売命

出雲国国造
上菟上国国造
下菟上国国造
伊自牟国造
津島縣直
近江国国造等

祖は天菩比命(アメノホヒ)の子、
建比良鳥命



凡川内国造
額田部湯坐連
倭田中直
山代国造
馬来田国造
道尻岐閇国造
周芳国造
倭淹知造
高市縣主
蒲生稲寸
三枝部造等

祖は天津日子根命

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊

天之菩卑能命
吾勝尊誓約
思兼神が思慮

中臣
祖は天児屋命

忌部
祖は太玉命

猿女君
祖は天鈿女命

天手力雄神

一書
石凝姥命(紀伊国・日前神)

一書
天糠戸命(鏡作)
太玉神(忌部)
豊玉神(玉造)・山神・野神
天児屋命(中臣)

一書
輿台産霊(中臣)
天抜戸の子、石凝戸辺(鏡作)
天明玉命(玉作)
天日鷲命(忌部・阿波国)
太玉命(忌部首)

一書・スサノヲの生んだ子
正哉吾勝勝速日天忍穂根尊
天穂日命(出雲・武蔵・土師)
天津彦根(茨城国造・額田部連)
活目津彦根命
熯速日命
熊野大角命
高御産巣日神の子、思金神が思慮

鍛人天津麻羅(鍛師?)
伊斯許理度売命(鏡作)
天兒屋命(中臣)
布刀玉命(忌部)
天手力男神
天宇受売命(猿女君)
思兼神の指示で、
太玉神が和幣(にきて)を造らせる

鏡作
親は天糠戸命
祖は石凝姥命

麻続(をみ)(伊勢国)
祖は長白羽神

倭文(しとり)
祖は天羽槌雄神


登場するその他の神
天鈿女命(猿女君)
天日鷲神(麻続・倭文・大麻比古命の祖)
津咋見神(大麻比古命の別名)
天棚機姫神
櫛明玉神(玉祖)
手置帆負命・彦狭知命(忌部)
天手力雄神
豊磐間戸命・櫛磐間戸命(忌部)
天の岩戸
賀茂
三輪

大三輪神・大己貴命の幸魂/奇魂

経津主
武甕槌神
建御雷神(常陸国・鹿島神宮・中臣)
(天尾羽張神の子)

建御名方神(科野国・宗像?)
経津主(下総国・香取神・物部?)

武甕槌神(常陸国・鹿島神宮・中臣)
(甕速日神の子)
出雲神話
隼人
祖は火闌降命

磐余彦
祖は彦火火出見尊

尾張
祖は火明命
火明命の子は天香山

天児屋命(中臣)
太玉命(忌部)
天鈿女命(猿女君)
石凝姥命(鏡作)
玉屋命(玉作)

手置帆負命(忌部・紀伊国)
彦狭知命(忌部)
天目一箇命
天日鷲命
櫛明玉命
太玉命
(大己貴命を祀る)

天忍日命(大伴)
天槵津大来目(来目部)
天児屋命(中臣)
布刀玉命(忌部)
天宇受売神(猿女君)
伊斯許理度売命(鏡作)
玉祖命(玉祖)

思金神・天照大神の鏡(五十鈴宮・伊勢国)
天手力男神(佐那那県・伊勢国)
天石戸別神(櫛岩窓神・豊石窓神・御門の神)

登由気神(渡会)

天忍日命(大伴)
天津久米命(久米)
天児屋命(中臣)
天太玉命(忌部)
天鈿女命(猿女君)

天忍日命(大伴)
天槵津大来目(来目部)
天孫降臨
吾田君小橋
祖は、火闌降命
(隼人?)

火闌降命は、海幸彦、
彦火火出見尊は、山幸彦。
山幸彦は、海幸彦に追われ、
海神と出会い、豊玉姫と婚姻。
豊玉姫と彦火火出見尊との子は、
彦波灑武鵜茅草葺不合尊
猿女君
祖は、天宇受売神・猿田毘古命
「宇受売(うずめ)」は「阿曇(あずみ)」系か?
猿田毘古命は漁の途中、
比良夫貝に手を挟まれ溺れる
天祖彦火尊と豊玉姫(海神)の子、
彦瀲尊が生まれたとき、
海浜の室に仕え蟹を掃った
掃守(かにもり)
祖は天忍人命(尾張・海部)
特記
倭直
祖は椎根津彦(珍彦)

宇佐国造
祖は宇佐津彦・宇佐津姫
宇佐津姫は天種子命に娶られた。
天種子命は中臣の祖。

日臣命→道臣命(大伴)
大來目(久米)

吉野首部
祖は、井光

国栖(吉野)
祖は石押分の子

鵜飼部(阿陀)
祖は苞苴担

物部
祖は長髄彦の部下?
参考コラム
宇佐国造
祖は宇沙都比古

倭国造
祖は槁根津日子(速吸門・浪速国=難波?)

登美那賀須泥毘古(物部の母方の祖)
高倉下(天香山命・尾張・海部)
八咫烏(賀茂)
布都御魂神(物部?)

鵜飼(阿陀)
祖は贄持之子

吉野首等
祖は井氷鹿

国巣(吉野)
祖は石押分之子

道臣命(大伴)
大來目(久米)

物部・穂積・〈采女〉
祖は、宇摩志麻遲命
(邇藝速日命+那賀須泥毘古)
大伴
祖は天忍日命・日臣命

物部
祖は饒速日命

大和氏
祖は椎根津彦(倭国造)

賀茂県主
祖は八咫烏
神武東征
論功行賞

倭国造
祖は椎根津彦(珍彦)

大伴
祖は天忍日命・日臣命・道臣命

久米
祖は大來目

主水部(宇陀)
祖は弟猾(猛田の県主)

磯城県主
祖は弟磯城(名は黒速)

葛城国造
祖は剣根

葛野主殿県主
祖は八咫烏(賀茂)
久米
祖は大來目命
久米歌を披露

大來目命の入墨を見て、
神武妃の伊須気余理比売が驚く。
忌部
祖は天富命(天太玉の孫)
手置帆負命・彦狭知命は、
神武の正殿・御殿を作った
後に紀伊国に移り住む
橿原即位
日本の公式な国史。

阿曇の祀る海神は、
天照大神よりも先に生まれた。

隼人らは、朝廷の番で、
狗人(吠える犬の役)をした。
(海彦・山彦)

日向には前方後円墳が多い。
隼人族らその後、衰退した?
稗田阿礼の暗誦によるもの。
伊勢に降ったサルタヒコとウズメの後日談が記載。

神武東征で久米歌の記載が多くあり、
久米が目に刺青をしていて、
それを誇りにしていた記述がある。
阿曇目とも呼ばれる、海人の風習であろう。
後の時代になると、目への刺青は、
刑罰の対象になる。
顔色が悪いときに「目にクマが出来た」という。

神武天皇は久米と違って、
入墨はしていなかった?

弥生時代後期の「人面文土器」に、
顔に刺青の特徴を持つものが、
瀬戸内海~伊勢湾沿岸から出土している。
大和からは出土していない。

魏志倭人伝では、倭人の風俗として、
「黥面文身」とある。

古墳時代から、海人は差別された?
斎部広成の編纂。
忌部についての記載が多い。

阿波~紀伊で祭祀(政治)をしていた部族か。

歴史ある忌部氏の祭祀の重要性を訴えたもの。
後世、中臣だけが朝廷の祭祀を任され、
忌部・猿女君の衰退したことを嘆く。
草薙剣を祀る熱田神宮も冷遇されていた?

阿波(徳島・香川)は、
前方後円墳発祥という説がある。
備考




かおる
これを見ると、神話のはじめの頃に登場する神を祖神とする氏族は、
どの文献も、阿曇・宗像・尾張・隼人・忌部などの海人系氏族が多いですね。
つづき
古代において、祭祀と政治は同一じゃった。
阿波」の、「海人」系大王に仕える司祭たちが、後に「忌部」となったに違いない。




あは(阿波)」

あめ(天皇・大王)」←「あま(海人」→「いむ(忌部)」





かおる
でも、海人系氏族も、忌部も、後の時代には衰退していったように見えますね。
隼人は「狗人(犬)」に例えられていますし、海人の顔の入墨も「阿曇目」などと呼ばれてます。

斎部広成は、古語拾遺の中で忌部の衰退を嘆いています。

たまたま、古い由緒のある氏族が海人出身だったというだけで、
阿波勢力が大和王権成立に関与していたとは言えませんよ?



つづき
古代では、政治と祭祀は同じものじゃった。 どちらも、「マツリゴト」という。


古墳時代では、政治手法が近代化されるに従い、祭祀中心の政治は機能しなくなり、
廃れ、侮蔑の対象となったのであろう。
が、「忌部」は、大和王権成立時は、政治(祭祀)の中枢を担っていたはず。


かおる
忌部」と並んで、「中臣」という祭祀集団がいますが、
中臣のほうは、どうだったのでしょう?

古語拾遺によると、上代の頃は、忌部・中臣・猿女君が共に祭祀を司っていたのに、
最近は中臣ばかりが神事・祭祀の多くを任さるようになったことに不満を述べています。




中臣とは、どういう氏族か?


中臣と、忌部は、
共同で神事・祭祀を司っていた。
中臣=天神寿詞(祝詞を読む)
忌部=神璽鏡剣(神宝を奉る)




天岩戸で活躍した神の氏族
中臣・天児屋命
忌部・太玉命
猿女君・天鈿女命


天孫降臨の五伴緒
中臣・天児屋命
忌部・太玉命
猿女君・天鈿女命
鏡作・石凝姥命
玉祖・玉屋命


垂仁紀の五大夫
阿倍臣・武渟川別
和珥臣・彦國葺
中臣連・大鹿島
物部連・十千根
大伴連・武日


仲哀紀の四大夫
中臣烏賊津連
大三輪大友主君
物部膽咋連
大伴武以連


推古紀の四大夫
大伴咋連
蘇我豐浦蝦夷臣
阪本糠手臣
阿倍鳥子臣




忌部は、天孫降臨(弥生時代)までは勢いがあったが、
垂仁天皇の御世(古墳時代)には衰え、
中臣が、神事・祭祀を独占するようになった。




つづき
忌部と中臣は、当初は共同で神事・祭祀を司っていたが、政治の近代化と共に、中臣は祭祀のありかたを近代化させ、
徐々に忌部を押しのけるように、王権の中枢で祭祀権を掌握していったのじゃろう。
かおる
でも、推古紀の四大夫(推古19年、新羅、任那使人を迎える)には、中臣は加わってませんね?



推古天皇の御世では、中臣も衰退し、
蘇我氏が台頭してきたようです。




つづき
うむ。 どこからともなく、蘇我氏が台頭してきたとき、中臣は焦ったことじゃろう。
そして事件は起きるのじゃ。
かおる
事件とは?

つづき
大化の改新じゃ。





大化の改新は、乙巳の変にはじまる。



乙巳の変

推古天皇30年2月22日
厩戸皇子(聖徳太子)が死去し、蘇我氏が台頭を始めた。

推古天皇34年5月20日
蘇我馬子が死に、子の蝦夷が大臣となる。

推古天皇36年3月7日
推古天皇崩御。
有力な皇位継承権者に、田村皇子と山背大兄王(聖徳太子の子)がいたが、
蘇我蝦夷は、田村皇子を強行に舒明天皇として即位させる。
蘇我氏は朝廷を凌ぐほどの勢いを増す。

舒明天皇13年10月9日
舒明天皇崩御。
皇后の宝皇女が皇極天皇として即位。
  蘇我蝦夷の子、蘇我入鹿は、山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めた。
生駒山に追われたとき、
三輪文屋君は東国逃亡を山背大兄王に進めるが拒まれる。
斑鳩寺に戻った山背大兄王は自決し、
聖徳太子の血をひく上宮王家は滅亡した。

皇極天皇3年1月1日
中臣鎌子は蘇我入鹿打倒に向けて動き、
皇極天皇の皇子、中大兄皇子と接近する。

皇極天皇4年6月12日
三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日。
朝廷で行われる調の儀式を好機として、
中臣鎌子、中大兄皇子の策謀で、蘇我入鹿を暗殺計画を実行。

蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我入鹿暗殺に協力し、
朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。
佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、剣を構えた。
中大兄皇子は長槍を持ち飛び出した。
皇極天皇の前で、蘇我入鹿は殺された。
翌日、蘇我蝦夷は居に火を放ち自殺した。

皇極天皇4年6月14日
皇極天皇は退位し、弟の軽皇子を立てて孝徳天皇とした。
中大兄皇子は皇太子となる。

左大臣に阿倍倉梯内麻呂、
右大臣に蘇我倉山田石川麻、
内臣に中臣鎌子が就任した。











古代より、中臣は、忌部と共に神事・祭祀を司っていた。

忌部は、天孫降臨(弥生時代)までは勢いがあったが、
垂仁天皇の御世(古墳時代)には衰え、中臣が台頭した。

推古天皇の御世には、蘇我氏が台頭するが、
中臣は、それを許さず、ついに蘇我氏を滅ぼした。










かおる
ほほ~。 こうしてみると、中臣という氏族は、
神代から日本の政治に深く影響を及ぼしていたとゆ~実態が見えてきますね?

大化の改新というと、蘇我氏ばかりがクローズアップされますが、
中臣と忌部の確執の流れから来てるわけか。

つづき
中臣の隆盛をニガニガしく思っていた氏族がいたとすれば、その筆頭は、忌部であったじゃろう。
そしてまた事件は起きるのじゃ。
かおる
事件とは?

つづき
壬申の乱じゃ。





天智天皇(中大兄皇子)の死後、
大海人皇子(天武天皇)の決起により、壬申の乱が起きた。
大海人皇子(天武天皇)は、
挙兵のため吉野を離れた後天照大神を拝し、
東国勢力の軍勢を借りて勝利した。

天照大神を祀る、伊勢神宮の式年遷宮は、
持統天皇(天武妃)によって始まった。
参考コラム

持統天皇の母は蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘である。
蘇我倉山田石川麻呂は、蘇我入鹿暗殺に協力し、朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。

蘇我に権力を脅かされた中臣の逆襲が大化の改新であり、
壬申の乱は、中臣に権力を奪われた、
海人・忌部・天皇家の逆襲だったのかもしれない。


日本書記で、「忌部」の記録は、天孫降臨の神代より後(古墳時代)は、登場しなくなる。
次に登場する記述は、以下の通り。

孝徳天皇新政権発足時、忌部首子麻呂を美濃国に遣わし、神に供える幣を課す。
天武天皇挙兵、赤麻呂・忌部首子人らに、古宮を守らせる。
天武天皇即位の大嘗祭、中臣・忌部・神官らに賜物。
天武天皇九年、忌部首首に「連」姓を賜る。
天武天皇十年、帝紀の記録の校定をさせる。
天武天皇十三年、忌部ら五十氏に「宿禰」の姓。
持統天皇四年、持統天皇に神璽鏡剣を奉る。

忌部は、天武天皇の政権となって、やっと復活したようだ。






かおる
ほほ~。 大化の改新や、壬申の乱が、神代からの中臣と忌部の絡みだったとすればスゴイ因縁話ですね~。

つづき
中臣の権力への執念深さも、1000年の歴史があるというわけじゃ。
ちっとやそっとじゃ、太刀打ちできぬじゃろう。
かおる
壬申の乱では、大友皇子に味方をして敗れた中臣ですが、祭祀は中臣の子孫の「藤原」へ継承されました。
勝利した(?)忌部は、すでに、祭祀の権限を奪い返すほどの力も失っていたということでしょうか。


古語拾遺では、草薙剣を祀る熱田神宮が冷遇されていたことを嘆いていますが、
結局、熱田神宮も、尾張氏から藤原氏に大宮司職の座を渡しました。

大海人皇子(天武天皇)の系譜も、称徳天皇で血統が途絶えてしまい、
光仁天皇から、中大兄皇子(天智天皇)の系譜に戻っています。


つづき
阿波(アハ)の海人(アマ)を祖とする天皇家(アメ)も、阿波の忌部(イム)も、
中大兄皇子・中臣(ナカ)には完敗してしまったということじゃ。 諸行無常じゃのう。


こうして、阿波勢力の栄華は、
中臣泣かされて、水のと消えたのじゃ。


かおる
まさか、今のダジャレがオチじゃないですよね?







「新唐書」-「東夷伝」日本伝には、
「其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城」という記述がある。

阿毎(アメ)」を名乗る王の、初めての名は「天御中(ナカ)主」だったという。
日本情勢を、そのように中国は認識していたのである。


天児屋命(中臣の祖)は、ニニギに随伴して日向に降臨した。
天種子命(中臣の祖)は、神武東征に随伴し、宇佐に立ち寄った。

日本書記では、神武東征で宇佐に立ち寄ったとき、
天種子命が、宇佐津姫を娶ったという。
宇佐には、「中津」という地名が残っている。

ニニギも、大和に降臨したニギハヤヒも、「ナカ」系の言葉。
神職を禰宜(ネギ)という。



日向に天孫降臨したのは、阿波の海人集団だったのかも知れない。
アメ(天)」の王族を影で操っていたのが「ナカ(中)」族だった。

徳島県には「那賀郡」があり、長国造が置かれた。 長国造の祖神は大国主命。
阿波国は、その昔、「粟国(アハ)」と南方の「長国(ナガ)」に分かれていたという。














付録・年表




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