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伝えたい真実


April.21.2008




チベット人達は、誰かに知って欲しいのです。
自分達の運命を。

そして、応えて欲しいのです。
見捨てないでくれと。







追記:2008年4月10日

先月、チベットで騒乱が起きてから、
ラサの僧侶達、チベット人達の抗議の声は、世界の人々にはどのように受け止められたのでしょうか?

現在、オリンピック聖火リレーが、欧米を通過しています。
ロンドン・パリ・サンフランシスコで、大きな抗議行動が見られました。
チベット人達の声は、遠い地球の裏までも、しっかり伝わっていたようです。

人種も国境も越えた、地球人共通の「良心」の息吹でしょうか?
地球人共通の「良心」というものがあるとすれば、それはどのような力を持ちえるでしょうか?
宗教や思想を越えられるのでしょうか?
歴史を動かすほどの力になるでしょうか?
それとも、チベット人の自由は、夢想として潰えてしまうのでしょうか?
オリンピックは、平和の祭典と祝福され、これからも開催して行けるでしょうか?
チベット人の犠牲の上に血塗られた汚点を残すのでしょうか?




歴史的なオリンピックとなる予兆があるにも関わらず、
日本のマスコミの伝え方、オリンピック関係者の発言は、おおよそ次のようなものでした。

「スポーツと政治を結びつけるべきでない。」

スポーツと政治は別と言うなら、それはもっともな意見ですが、
「なぜ、多くの人が中国に抗議の声を上げているのか?」という件について、
意図的にかどうかは知りませんが、誰も何も言及をしていません。

「なぜ、世界中で多くの人が抗議の声を上げているのか?」
知らないのか、知ろうとしないのか、とぼけているだけなのか?

問題の発端は、中国の人権問題に対する批判です。
中国でオリンピック開催が決まったとき、国際オリンピック委員会は、中国に「人権状況の改善」を求めていたはずです。

しかし結果的に中国は、人権状況を改善するどころか、ますます弾圧を強めているわけです。
いまだに、チベット・ラサに、自由にジャーナリストが出入りできないことがそれを証明しています。

もともとオリンピック運動というのは、スポーツを通じて平和を祈る祭典だったはずです。
開催国は、世界平和や人権を尊ぶ国として模範であるべき責任が求められるはずです。
国際オリンピック委員会は、オリンピック開催国がオリンピック憲章に反しない国家であるかどうか見極めて、
開催国を決定する責任があるはずです。

いま、欧米で起きている抗議運動は、「中国はオリンピックを開催する資格があるのか?」と、問い正しているのです。


欧米で起きた抗議運動を批判される人は、批判の矛先を間違えている気がします。
批判されるべき第一は、中国であり、第二は、国際オリンピック委員会であるはずです。

スポーツマンを責めたくはありませんが、ただしかし、
オリンピック関係者は、「スポーツと政治は別」などと奇麗事を言い、自分達だけ責任逃れをし、
スポーツは善で、抗議運動を悪だと非難することは、スポーツマンシップにもとる行為だと思います。




今日、来日したダライ・ラマの記者会見の様子をyoutubeで見つけました。
重大なニュースであるはずなのに、なかなかテレビはノーカットで放送してくれないので、こうした情報提供は助かります。

http://jp.youtube.com/watch?v=TQqePE7OR08
http://jp.youtube.com/watch?v=KJiXTQFkDSQ
http://jp.youtube.com/watch?v=ogTmASZT37I
http://jp.youtube.com/watch?v=mAIwBGHOb_o
http://jp.youtube.com/watch?v=y7YsBxqf7BM






追記:2008年4月17日

今月26日、長野で聖火リレーが行われる予定です。

聖火リレーは、機動隊が警護するそうです。
長野市は、聖火記念イベントの中止を決めたようです。

混乱を避けるためではありますが、そうまでして行わなければならない「聖火リレー」とは、何なのでしょう?
平和の炎だったはずが、オリンピックが巨大産業化したことで、政治や利権や国威の象徴となってしまったことは否めません。
現代では仕方の無いことと、諦観するのも良いでしょう。

ですが、「聖火リレー」のスタート地点が、「善光寺」なのが、やはり気になります。
せめて今回は、善光寺だけは関わるべきではないと思います。
善光寺は、政治や利権やスポーツとも本来無縁であるはずの宗教施設です。
なぜ、「聖火リレー」のスタート地点が、「善光寺」でなければならないのでしょうか?
「長野の重要な観光施設」というなら、それなりに理解はできます。
ただの観光施設なら、チベットで同じ仏教徒が弾圧されていても、それを理由にどうこうすることはないでしょう。
私としては、善光寺は、政治や利権に振り回されることの無い仏教施設であって欲しいと願うところですが、
善光寺の側が、観光施設として経営していく道を選ぶというのであれば、他人が止めることはできません。
それが、「自由」というものです。


この機会に、仏教用語の「煩悩」について調べてみました。
辞書によると、煩悩とは、身心を悩まし苦しめ、煩わせ、けがす精神作用。
根元的な煩悩として、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)を三毒というそうです。



思うに、北京オリンピックに怒らず、愚かなデモなどをしないと決めてる人は、
残る「」さえなければ、煩悩から開放され、解脱できるのではないかと思われます。
どうも、私は全てにおいて煩悩を捨てきれていないようです。

さて、善光寺の解脱レベルは、いかようなものでしょう?
答えは、もうすぐ出ます。










追記:2008年4月18日

どうやら、善光寺で動きがあり、聖火リレー出発地として善光寺境内の不使用を申し入れるとのこと。

英断というか、当然の決定でしょう。
昨日まで、善光寺の良識を疑い、失望していたところでしたが、これからは心より敬意を持ちたい所存です。
いつか旅行に行ったおりには、参拝させていただきます。

日本の伝統あるお寺が、「」の心を忘れないでいてくれて、本当によかったです。






追記:2008年4月19日

「善悪」というものを、ときどき考えさせられます。
この世の中に、「善悪」というものはあるのでしょうか?
もし、ニュースやネットが無く、中国のことやチベットのことを知らなければ、
聖火リレーの出発地として善光寺が辞退したことが、どういう意味なのか理解できず、期待していた人は残念がるしか無いはずです。
そういう意味では、個人の「善悪」の判断は「情報」の多さに関わってきます。

情報をどれだけ持っているかは、個人によってばらつきがあります。
情報量や偏りによって、個人の善悪の判断は異なってくるでしょう。
中国のしているように情報を閉ざすことは、個人の善悪の判断を狂わせることになるでしょう。
個人が善悪を判断するために、情報は閉ざされるべきではなく、より多く公開されるべきです。
チベット弾圧は、中国国内世論では当然だとし、欧米世論では批判が高まっています。
情報の格差が、争いを生む原因になっています。



善悪は、情報が生み出すものとも言えます。
情報を知れば知るほど、善悪の判断に迫られるでしょう。
善悪の判断は、ある意味、面倒なことかも知れません。
利害関係にある知らない誰かから、そしりを受けるかもしれません。
問題に直面したとき「見ないふり」「知らないふり」をすれば、面倒に巻き込まれなくてもすむわけです。
が、それでいいのでしょうか?



もし、この世の中に「善悪」という価値基準が存在し、それが社会に有益なモノであるなら、
善悪を決めるのは、裁判所ではなく、政治や経済でもなく、個人の心のありようだと思います。
個人の数だけ、善悪の価値基準はあるはずです。

個人が集まり、社会を形成する上で、個人個人が持つ善悪の価値基準を集約し、
裁判所や、政治や経済が答えを出せない問題について、
一定の指針を定めて模範を示すのが宗教の役目であり、存在意義であろうかと思っています。
示された答えが、「善」であるか、「悪」であるかは、その宗教が社会に貢献してるかどうかは、また個人が考えることです。

宗教家は、政治家のようにノーコメントとは言えないはずです。
起こっている問題に何の答えも出せないようであれば、宗教の存在意義はありません。
善光寺が模範を示してくれたおかげで、仏教は、かろうじて存在意義を保つことが出来たと感じます。

私は特定の宗教に傾倒するものではありませんが、
「宗教=存在意義のまったく無いモノ」という結果になることは危惧していました。
やはり、人と人とが、あるていど「善悪の価値基準=良識」を共有できる社会のほうが、住みやすいと思いますので。

善光寺は、模範を示してくれましたが、では、他の宗教はどうでしょう?
もし、何の反応もなければ、その宗教は、宗教としての存在意義はありません。

唐招提寺や法隆寺は、なんらかの答えを出してくれるのでしょうか?







追記:2008年4月20日

聖火リレースタート地点を辞退した善光寺で、ラクガキがされるという被害が起きたそうです。

こうした面倒が起こる事は「問題に関わった」ものの宿命でしょう。
「無関心を装うことをしなかった」という勲章とも言えます。

ラクガキをした犯人も、何らかの善悪の判断による行動だったはずです。
犯人は、「善光寺は悪だ」という情報を得て、「善光寺にラクガキすることが善」だと判断したのでしょう。



ものごとの善悪を判断するには、より多くの情報が必要です。
問題は、個人が得られる情報には限界があり、
限りある情報からは、絶対的な善悪は推定できないということです。

理論的には、「絶対的な善悪」を判断できるのは、「全知」を持つ者にしかできません。
全知を持つ人がいたら、その人は、「神」とか「仏」とか呼ばれるでしょう。

人は神にはなれません。
だからこそ、「善悪の判断をする場合、より多くの情報を得る必要がある」のでます。
自分が得ている情報は、偏ったものか? 偏っていないか? 常に注意しなければなりません。
神でない以上、自分は「絶対的な善悪を判断できない」という謙虚さも必要です。
人間は、常に限られた情報の中でしか、善悪の判断は出来ません。
逆に、人々の善悪の意識をコントロールするには、偏った情報を与えれば簡単です。

たとえば、
中国共産党は情報統制を公言し、チベット関係の情報は限られたものしか入ってきていません。
こうした政策は、明らかに、チベット問題に対する善悪の判断を誤らせます。
情報統制をしている中国」は、「善悪を判断する以前の問題がある」と考えなくてはなりません。

平和を保つためには、情報の共有が必要です。
偏った情報を持つ同士では、善悪の価値判断は、真逆になることもあります。 その結果、争いを生む原因になります。
だからこそ、情報開示が必要だと、多方面から、あらゆる機会を通じて、中国に要求すべきだと思うのです。

政治とスポーツは別」などと言う以前に、「情報統制がされてる国にオリンピックを開く資格は無い」と思います。

こういうことは、ジャーナリストが率先して発言すべきことなのですが。







追記:2008年4月21日

結局、長野聖火リレースタート地点は「空き地」に決定したようです。
一方、善光寺では、チベットでの犠牲者への法要が行われるそうです。


まさに色即是空。
これぞ中道。


世界中で、中国の人権問題に対して抗議行動が行われているのに、
日本だけ何事も無く聖火リレーが開催されては、日本人全体の人権意識が問われるところであり、
私にも個人的に何か出来ることは無いのか? と、ずっと自問していたところですが、
長野で、ここまで仏教的なカタチで聖火受け入れ&批判が行われるとは想像もしていませんでした。
日本人として、中国への抗議は、これだけで十分足りてる感じがします。

スタート地点が、ただの「空き地」になったのは、日本的お役所仕事の結果でしょうが、
今回は、結果的に非常にツボにはまった抗議となったと言えましょう。
中身の伴わない平和の祭典を「空」で示し、しかし、リレーを短縮させることなく、やることはやるという「中道」。

長野は県ぐるみで「解脱」しているとしか言えません。

中国や外国には、この仏教的抗議形態は理解できないかもしれませんが、
日本人として、これ以上無い抗議の意思が長野で示せる結果となって、ほっとしています。

願わくば、聖火リレーに参加した方は、善光寺でチベット人のためにお祈りしていってくださることを。

















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