「雪のたから」
June.20.2005
「雪のたから」(いのちのことば社)について
(パトリシア・M・セントジョン著・松代穂美訳)
何かを信じるということが、本当に難しくなった世の中です。
恐れや怒りや猜疑心といった醜い心が、信じるということを躊躇させます。
原作の内容は、聖書の引用が多く見られますので、すごく宗教的な印象を持ちますが、
キリスト教的世界観を差し引けば、「赦しあい、信じあうことの素晴らしさ」を描いた普遍的な物語です。
もとより、なにがしかの信仰をお持ちの方は、とても感銘を受けるでしょうし、そうでない方は、
「信仰心」が、どういうプロセスで人の心に芽生えるのか、宗教というものへの理解の助けになるかも知れません。
そういう方面や、道徳的なお話しに全く興味が無い方には、退屈かもしれません。
「信仰」という言葉は、本来、尊いものでありますが、
現代では価値観も多様化し、信じていた事から裏切られるということも多く、
いまとなっては「信仰」という言葉にうさんくさい響きを感じて警戒する人も多いと思われます。
実際に、信仰心につけこんで、悪だくみをする人も多いのですから油断なりません。
原作の主人公は、心の扉を開き、最終的に、神の「全き愛」を受け入れます。
が、それは誰かに強制的に布教されたとか洗脳されたものではありません。
アンネットもルシエンも、最初は信仰心は薄く、大人から聞かされる聖書のありがたい言葉も理解できていませんでした。
主人公が苦しみを耐え抜いているとき、あるきっかけで、それが意味のあるものと思えたとき、良い結果が得られたとき、
後になってから、謙虚な気持ちから「超自然的な存在=神のおぼしめし」を身近に感じ取ったということなのです。
このように、本来、信仰心とは、教え込まれるものではなく、内から芽生えるものなのでしょう。
神の存在を信じずとも、「自分の力を信じた」というふうに思っても構わないでしょう。
傲慢にさえならなければ、「自信」も「自分を信じた」という一種の信仰と言えなくもないわけです。
ですから、「苦しいときの神頼み」とか、困難に直面したときに神にすがるという行為は、本当の信仰では無い気がします。
人の弱みに付け込んで壷を売るなどの布教活動も、まやかしの信仰心を植えつけるものでしょう。
「信じる」ということは、他人から理屈で植え付けられたり、強制されるものではなく、
自分で「信じられる対象を発見する」ものでなくてはならないのではないのでしょうか?
たまたま、この物語の主人公は、キリスト教文化に生きる人ですから、信じる対象は「主なるイエス」となりますが、
お釈迦様であってもいいし、もっとスタンダードに「友情」や、「勇気」という概念でもいいわけです。
アニメでは、そのようにわかりやすく置き換えていたわけですね。
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